長谷川正徳のちょっといい話

第9話 幸せとは無事であること

幸せとは無事であること 挿絵

 仏教では幸福のことを「無憂」という。
憂い、つまり心配のないのが幸福なのだという。
 確かに、人間にとって"無事である"ということこそ、幸福の正体であるといえよう。
幸福とはこのように消極的なものなのである。
憂い、心配のないという姿─それが幸福なのである。
無事平凡において味わうことができるのである。

 われわれにとって「幸福」がなぜ消極的なものなのか、この点をよく考える必要がある。
 それは「生」なるものが、実は消極的なものだからである。
生きているということは、実は生かされているということである。
自分の力で立っているのではないということである。
「生」の本質はむしろ「死」にある、死が正体であるといえる。
それが人間というものなのである。
 したがって、一日を生きたのは恵みによるのであり、わが力によるものではないから、今日を無事に過ごすことができたのは幸福の極みにであったと考えるべきなのである。

 ある株式相場に熟練した人が言った。

「もうけようと思うな、損するなと思え」

確かに人生は、

「勝とうと思うな、負けるなと思え」

なのだ。
幸福の極意も、

「幸せであろうと思うな、不幸になるまいと思え」

であろう。
無事に過ごした今日を感謝しよう。

 仏教ではよく無我という。
無我とは自分が零ということである。
自分が零であれば、すべてはプラスである。
幸福をつかむ道はこの自分の正体が例であることを知る道にある。
幸福を求める者は、幸福を"求めて"はならぬ。
 幸福は前にはなくていつも背後にある。

前の法話
長谷川正徳のちょっといい話 法話一覧に戻る
法話図書館トップに戻る