長谷川正徳のちょっといい話

第21話 いくつになっても生きる意味と目的を

いくつになっても生きる意味と目的を 挿絵

 ストレスについて考えてみよう。

 ウィッシャーというスイスの学者の報告例の中に、百二歳で死んだ女性の話がある。
この老婦人は精神障害者の娘を看病していたのであるが、その娘が死んだ。
するとその老母も後を追うように、間もなく亡くなってしまった。
 ウィッシャーはこれについて、次のように説明する。

 見方によっては、娘の死をいたんでストレスを起こし、そのために死んだともいえる。
しかしこの場合は、この母親は百歳を超えたというのに、精神障害を持った娘の世話をして、死ぬにも死に切れないといった状況があったが、その娘が死んでしまって、急に何もすることがなくなった状況に置かれてしまった。
 百二歳の老母にしてみれば、愛していたとはいえ、精神に障害を持つ娘の世話をすることだけで大きなストレスの連続であったに違いない。
そのストレスが急にはずされたことは、病める娘の世話をしてやろうという "目的" がなくなったことになる。

 それ故、こう考えることができる。
 彼女が百二歳まで生きられたのは。"しなければならない" 努力、目的などという前向きのストレスがあったからこそだと。
そして、そのストレスがはずれ無くなったために、来るべきもの─死が来たのだ。と。

 つまり、ストレスが彼女の生命を百二歳まで引き延ばしたのだ。
─その間、すでに訪れていた死神は戸口に待たされていた、と。

 やはり人はいくつになっても、生きる意味を求め、目的を設定することを止めてはならぬということである。
老人性痴呆症からまぬがれるためにも、これが一番大切なことである。

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