長谷川正徳のちょっといい話

第24話 人には、さまざまな死のとらえ方がある

人には、さまざまな死のとらえ方がある 挿絵

 北里大学病院の坂上正道院長は、

 「人には、さまざまな死のとらえ方がある」

といわれ、次のように、ある死の場面を語っておられる。

 重度の奇形をもって生れてきた赤ちゃんが、生後間もなく息を引きとった。
聴診器を当てる。
すでに心臓は停止し、呼吸も止まり、瞳孔も大きく開いていた。
医学的には死を示す "三兆候" を満たす「死」である。
だが、母親はその子を抱き続けた。

 「もう死んでしまったから、こちらへ渡しなさい」

と声をかけても返事もせず、抱いていた。
 次第に赤ちやんの体温が下がる。
そして、すっかり冷たくなった。
 そのときようやく、その母親は赤ちゃんを医師に渡した。

 「ああ、先生、この子は今、死にました」
と。

 「体温が冷たくなった時を死とするような、人間的心配りも必要だと思う」

と坂上先生は医学の立場からの倫理を説く。
これは非常に重要なことがらなのである。

 日本人は昔から、仏教によってつちかわれた独特の死生観があって、死後の弔いを通して、徐々に死を認めてきた。
通夜、葬式、初七日、四十九日などの法要儀礼を行い、人々は故人を失った悲しみを癒してきた。
 それらの法要儀礼は残された者の精神的なりハビリテーションなのである。

 幼い子供を亡くした親たち、学業半ばでの若者たちの事故死、何の前触れもなくクモ膜下出血による妻の死、元気に出社していった夫の交通事故死など、いずれも "突然の死" に遭遇した家族にとって、"死" はなかなか受け入れられるものではない。
 長期入院での治療を終えての死や、高齢に達しての死など、残された者たちがわずかでも心の準備をすることが可能な場合と違って "突然の死" を受け入れていくには、特に、伝統のこうした法要儀礼が必要である。

 法要儀礼の折々の法話こそ、大切な癒しの機会である。

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