長谷川正徳のちょっといい話

第34話 “考える”ということ

“考える”ということ 挿絵

 人間には知性とか理性というものがあって、肉体や本能をその手綱のもとにコントロールするようになっています。
動物はこの知性が全く発達しておりません。
しかし、そのかわり、自然が与えた自動制御の習性があります。
たとえば、狼などはお互いに激しく噛み合いますが、相手を押さえ込んで、まさに喉を噛み切ろうとすると、自動制止がかかって、そこで行動を止めてしまうのです。
 そうしなければ、同族が滅びてしまうからです。ところが、人間の場合は、本能のコントロールが、理性に任されてしまいますので、その肝心の理性がマヒしますと人間同志、平気で殺し合うということになってしまうのです。

 同じようなことですが、犬や猫は腹一杯食べるともうそれ以上食べません。
腹はへっていないのだが、付き合いにもういっぺん食べようとか、むしゃくしゃするからはしご酒しようとかいうのは人間だけです。
犬や猫は自然の掟に従うようにつくられていますが、人間は従うか従わないかが自由意思にまかされています。
ですから、理性がマヒして自然の掟を無視するようになりますと、それこそ犬や猫にも劣るようなことになります。

 仏教で、煩悩即菩提といいますが、煩悩といういわば動物的、本能的なものは、人間においては、理性とか知性という新しい大脳皮質の働きを養うことによってのみコントロールされ、煩悩が人間的な方向づけのもとに活かされてゆくことになるのです。
仏教で、「考える」ことを重要な要素とする所以であります。

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