長谷川正徳のちょっといい話

第41話 心の眼をひらく修行

心の眼をひらく修行 挿絵

 日本では、昔からいろいろな修行が行われてきた。
修行の種類の多いのが、日本文化の特徴の一つであった。
修行というのは、たとえば学校教育で学ぶ知識や学問をおさめるという、いわゆる知性にかかわることではなくて、知性のもうひとつ向こう側にある人間の性格や精神を、鍛えようとする企図である。

 いつの世においても、静かな流行として受け継がれてきている「いけばな」、「茶の湯」なども、すべて修行の意味をもち、その芸を磨くためのひたすらの精進は、仏教の修行に通じるものをもっている。

 かつて、千利休が、茶室の床柱に花いけの釘を打つことを大工に言いつけた。

大工は釘を持って、柱にあてて、
 「この辺に打ちましょうか」
と聞くと、離れて坐っていた利休が目で見当をつけ、
 「それは高過ぎる」
 「それは低過ぎる」
 「ちょっと高い」
 「ちょっと低い」
数十遍も釘を上にし、下にし、やっとのこと、
 「うむ、そこなら宜しかろう」
と利休が言った。

さていよいよ打つときになって、大工、一つ利休を試してみようと思い、定めた場所よりも少し下に当てて、
 「此処でしたでしょうか」
と聞いた。
 「そこは少し低いようだ」
今度は上にあげた。
 「少し高い」
三度目に定めの場所に釘を当てると、
 「そうだ。そこだ、そこだ」
と言った。

 その道に達した人々には尺度よりも正しい眼力、いうところの心眼ともいうべきものがある。
仏教の教えるすべての修行は、この心眼の開けるところにその深い意義がある。

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