長谷川正徳のちょっといい話

第63話 脳死は果たして人の死なのか

脳死は果たして人の死なのか 挿絵

 脳死と臓器移植がいま、やかましく論議されている。脳死とは何かについては、すでに判定基準なるものが出て、はっきり医学的な見解が示されている。これはもっぱら医学の問題であるが、その脳死が本当に一人の人間の死であるかということになると、これはさらに法律のかかわる問題である。

 法律のことはさておくとして、いま手術台に乗せられ、内蔵を取り出されようとしているドナー(臓器提供者)は死体なのであろうか。この死体は脳のはたらきは全くなくなっているが、しかし人工呼吸器をつけているとはいえ、呼吸をし、心臓ははたらき、体は温かい。アメリカではこのような死者をバイオモート(生きた死体の意)とよぶそうだが、生きた死体とはパラドックスであろうか。

 こういう考え方というものは哲学でいうと、人間機械論なのである。仏教では人間の心と体を機械的に切り離して考えることをしない。これを心身一如という。心身一如のいのちに仏をみるのである。さらに仏教では、すべての植物・動物、そして大自然のすべてに仏をみる。これを「山川草木悉(しつ)皆成仏」という。

 アメリカや∃ーロッパの生命倫理はどうも仏教の生命観になじまない。脳死を一人の人間の死と認め、移植を推進する人々は、いのちを脳の機械的なはたらきとしか見ないから、生命への畏怖もないし、生命への畏敬もない。これは人間の尊厳性をひどくそこなう。人工臓器の開発にこそ全力を傾けるべきであろう。

※この法話は平成9年に書かれたものです。

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