長谷川正徳のちょっといい話

第66話 涅槃ということ

涅槃ということ 挿絵

 お釈迦様がおなくなりになったことを、涅槃(ねはん)にはいられたと申します。そしてそれは二月十五日であったと伝えられています。

 釈氏要覧(しゃくしようらん)という書物に、「二月十五日、仏涅槃の日天下の僧俗に營会(えいえ)の供養あり、即ち忌日の事なり」とあって、昔からこの日に仏を追慕する法会(ほうえ)をおこなってきました。

 涅槃とはニルバーナという梵語を音読したもので、その意味をとって訳せば、滅とか滅度、又は無為(ひい)・無作(むさ)と申しまして、仏教の最終理想を表す言葉になっています。

 私どもは生の終りを死だと思っています。しかしそうではありません。生存は線ではないのです。生はいつも死とともにあるのであります。生きているものが何年か生きて、それが終って死ぬのではありません。元来、死であるべきものが、不思議にも今日もまた生き得ているのであります。

 まことに人間は自分の力で生きているのではありません。自分の力で得たいのちではないのですから恩寵(めぐみ)といいます。しかし、私どもは滅多に朝眠がさめて、「ああ今日も生かされている」と感謝した事はないのです。そのくせ、僅かの小銭でも貰えば大いに感謝します。

 それというのも、大きなめぐみを毎日毎日、ただ<無代>でめぐまれているので、それに慣れてしまっているからであります。まことに“いつか死ぬ”ではなかった。“死であるべきものが今日も生きていた”とこそいうべきであったのです。

 お釈迦様の涅槃とはこのいのちの真理を教えたもうているのです。

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