長谷川正徳のちょっといい話

第68話 死とは生の終点ではない。いつも生と一緒。

死とは生の終点ではない。いつも生と一緒。 挿絵

 アメリカの未来学者ハーマン・カーンは、「二十一世紀に最も求められる職種はフィロソファーである」と言いました。フィロソファーは日本では哲学者のことですが、アメリカではもっと軽く、「ものを考える人」又は、「ものを考えることを助ける人」ぐらいの意味で使っています。

 ハーマン・カーンに言わせると、二十一世紀にもなると、人びとのはたらく時間はますます短くなり、暇があり過ぎるようになって、人びとは、いまさらの如く「人は何のために生きるのか」「死は何か」などということを「考える」ようになり、それを助け導いてくれるものを求めるようになるというのであります。

 この未来学者の言っていることは恐らく当たるでしょう。もうすでに、今日日頃の日本の本屋に「死」に関する出版物が目につくようになっています。『タナトロジー(死学)』という言葉もさかんに使われるようになりました。

 ところで、実は宗教というものは、ことに「生老病死」という四苦を主題とする仏教は、実はこのタナトロジーを内に包む教えであったのです。

 現代の文明が死を拒否し、生への願望だけを肥大化させるような方向で発達してきたことに対する反省がさまざまの分野からなされて始めていることは非常に重要であります。仏教学者・金子大栄氏が、仏教を「死を問いとして、それに応えるに足る生き方を教え、学ぶものである」と定義されましたが、こういう真実の仏教が、これからいよいよ求められるのでありましょう。

 まことに死とは生の終点ではなく、いつも生と一緒にあるのですから。

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