ちょっといい話

第117話 粋な浮気と野暮な浮気

挿し絵  “般若のお面の般若って、仏教に関係あるんですか?”と時々きかれることがある。
般若心経を唱えている人ならば、般若が智恵(ちえ)という意味(パーリ語のパンニャの音写語)だということは知っている。だとすると、どうしてその智恵が、あのツノを持ち、見るからに恐ろしい形相の能面になるのだろうとお考えになるのは当然だ。
 じつは般若の面の般若は、あのお面を作った般若坊という人の名前なのである。だから智恵とは関係はない。しかし、あまりの出来の良さに制作者の名前をとって“般若の面”と呼ばれるようになったらしい。そして、その制作のコンセプトは……嫉妬に狂った女の形相!ということらしい。
ギャー!である。布団かぶって寝てしまおう。

 さて本題。浮気は相手にバレなきゃいいじゃん、という御仁がいらっしゃるようだが、そもそも相手をだましているという点で、イイジャンでは済まされぬ。嘘の上の信頼関係はそう長続きするものではないし、だまされていることを知らない人の不幸の上に成り立つ幸福など、どう考えてもあり得ないと思う(ようになった)。
浮気している本人は、これはもう“浮”という字が示しているように、フワフワ浮(うわ)ついているわけだから、我田引水、農業用水、泥酔、胃下垂、全身麻酔である。知らぬが仏などという仏教歪曲用語(?)を引き合いに、相手も知らないほうが幸せ、自分はもとより浮き浮きシvvvvなどと、身勝手ここに極まれりである。
……とここまで書いてきて、ここは仏教のページであることを思い出した。仏教では、基本的に愛=執着だぞ、と教えている。愛すれば、最初のうちはいいが、すぐに独り占めしたくなる。失うのがこわくなる。心のマイナス要因が増えていくというのだ。なるほどなあと思ったのは、ちゃんとした大人になってからのことだ。ただ、愛することのエネルギーは否定しない。それが愛染明王などの仏像の姿になっていく。
 お題にもどると、粋な浮気があるとすれば、それは“あこがれ”レベルにとどまっている場合なんだろうと思う。それを越えた時、勝ち負けだけに生きているといわれる阿修羅の世界、修羅場が待ってる……

 だいだい、どこまでが「浮気」とするかは、人によってまちまちで、尋ねてみると、怒った顔で答える人は「許さん!派」、他人事のような顔をして答える人は「人のことは無関心派」か「チャンスさえあれば…派」のようだ。何?私?私は答えないも〜ん。

 さて、次回はさいたま市のsaichanからのリクエスト「徳を積むって?」をふまえて、“ひたむき”でまいります。うつむきがちな人、顔をあげて、読んでみてください。