ちょっといい話

第119話 人の為と書いて偽?!

挿し絵  偽善の偽である。“いつわり”だ。人の為というこの漢字を作った人も、その使用を認めた人も、世の中の「人のためと言いながら、自分の利益ばかり考えているニセモノ」をずいぶん見聞き、そして体験したんだろうなあと思う。私にはそんな洞察力がないので、この造語能力に、ただただ感心するばかりである。

 20代の頃に『おかげさん』(相田みつを著・ダイヤモンド社)に収録されている言葉“人の為と書いていつわりと読むんだねえ”に出合って、我が意を得たりとばかりに、何度か得意になって受け売りしたことがあった。小さい頃から母に注意されるたびに、母が「あなたのために言っているのよ」とつけ加え、そのたびに心の中で「そうじゃない。お母さんは事あるごとに、あなたがそんなことをすればお母さんが笑われるのよと、言ってるじゃないか。つまり自分のために僕を叱っているんだ」という思いを口に出さずにいたからかもしれない。

 しかし、30歳をすぎてからは、ほとんど吹聴することがなくなった。誰かのために一生懸命やっている人の、深層心理なんかをほじくり返すことより、そのまま認めていくほうがずっと人間らしいと思うようになったからだ。「人のためにする」という無味乾燥な言葉に“思い”を味付けして「人のためにせずにはいられない、したくなってしまう」とすればどうだろう。「人のため」でOKではないか。「人の為って書いていつわりって読むんだよ」などと吹聴し、人の心に傷を追わせてそのまま逃げるような人には言ってみたいものだ。人のためでもいいから、やれるものならやってごらんなさい。

 人のためとか、慈悲なんていうのは、言い換えればお節介です。でも、いいじゃないですか。お節介できない人になるよりも、できるほうが!

 えーと、今回は「人のために生きることが大切なのだ」的に、自発的な生き方ばかりに言及していますけど、仏教がそんな道徳的かつ教条的なものとは思わないでください。たとえば、寝たきりになってしまった人は、どうやって人のために生きられるの?という落とし穴があるからです。寝たきりになっても、それで家族の絆が強くなることもあるし、やっと親へのご恩返しができるとしみじみと思う場合もあるはずです。
 次回は、そんな落とし穴に気づかなかったバカ芳彦の体験を“早期癌で良かった…”と題して、セキララにつづってまいります。