ちょっといい話

第127話 盲目の尊敬

挿し絵  森鴎外の短編に、破天荒な言動をする二人の僧侶と、その二人が文殊菩薩と普賢菩薩の生まれ変わりだと聞かされて会いに行く人物を、ユーモラスに描いた『寒山拾得』がある。
鴎外はこの作品の中で、物語をあえて中断して、話の流れをスムーズにするために、解説を書いている箇所がある。世の人々を“道”に関わる三種の態度で分類しているのだ。少々長いが引用してしまおう。
 全体世の中の人の、道とか宗教とかいうものに対する態度に三通りある。自分の職業に気を取られて、ただ営々役々えきえきと年月を送っている人は、道というものを顧みない。これは読書人でも同じ事である。もちろん書を読んで深く考えたら、道に到達せずにはいられまい。しかしそうまで考えないでも、日々のつとめだけは弁じて行かれよう。これはまつた無頓着むとんちやくな人である。
 次に著意して道を求める人がある。専念に道を求めて、万事をなげうつこともあれば、日々のつとめは怠らずに、断えず道に志していることもある。儒学に入っても、道教に入っても、仏法に入っても基督教にはいっても同じ事である。こういう人が深く這入り込むと日々のつとめがすなわち道そのものになってしまう。つづめて言えばこれはみな道を求める人である。
 この無頓着な人と、道を求める人との中間に、道というものの存在を客観的に認めていて、それに対して全く無頓着だというわけでもなく、さればといって自ら進んで道を求めるでもなく、自分をば道に疎遠そえんな人だと諦念あきらめ、別に道に親密な人がいるように思って、それを尊敬する人がある。尊敬はどの種類の人にもあるが、単に同じ対象を尊敬する場合を顧慮して云ってみると、道を求める人なら遅れているものが進んでいるものを尊敬することになり、ここにいう中間人物なら、自分のわからぬもの、会得することの出来ぬものを尊敬することになる。そこに盲目の尊敬が生ずる。盲目の尊敬では、たまたまそれをさし向ける対象が正鵠せいこくを得ていても、なんにもならぬのである。
 超能力者やら占い師を、自分にはない能力があるだけで、むやみに尊敬する人が時々いるものだが、その能力があるからといって、その人物が人格者とは限らない。
 一方その能力を身につけたいので真言宗の勉強をしたいと、若者が電話をかけてくる時がある。私は「座ったまま跳び上がりたいなら、体育大学へ行ってアクロバットチームに入りなさい。手を使わずに物を動かしたいなら、Mr.マリックに弟子入りしなさい。人の心理を知りたいなら、小説をたくさんお読みなさい」と答える。問題は何のために普通の人が持っていない超能力を使えるようになりたいかということのはずだ。特別意識など、百害あって一利なしである。

 さて次回は、この超能力で失敗したあるお釈迦さまのお弟子さんの物語を“何のための超能力”としてご紹介します。日本でもお馴染の方です。お楽しみに。