ちょっといい話

第154話 俺って温かいんだ

挿し絵  “自分が温かい”と自覚してから25年がたった。この場合、温かいとは気持ちのことではない。体温の話である。

 私が生まれ育ったお寺(現在は兄が住職をしている)には釣鐘がある。携帯ラジオに合わせて毎朝6時、夕方6時(冬は5時)に突く。近所の人たちは鐘の音を合図に、ご飯のスイッチを入れたりしていた。
 朝の釣鐘は住職である父が担当だったが、夕方は、釣鐘時刻に父のそばにいた人が命ぜられる羽目になる。
 さて、私が大学生の頃のこと。2月の北風寒風吹きすさぶ夕方のこと。私に白羽の矢がたった。寺の大玄関を出て約50メートル先にある釣鐘まで、首をすくめて、手に持ったラジオでNHKの天気予報、交通情報を聞きながら到着。つづいてイタズラ防止のためにかけられている鉄の鎖のガラガラとはずす。手が鉄にくっつきそうな冷たさである。
 ラジオの交通情報が、一般道の情報から首都高速情報に変わるころ、捨て鐘といわれる鐘を小さく3回突く。そして、時報に合わせて、ドンピシャのタイミングで、ゴ〜〜ンとならす。大きいのは5時なので5回だ。一打の間隔は約40秒。回数を間違えないように、釣鐘堂の横柱に、はずした鎖を五列になるようにかけてある。最後に再びすて鐘を3回小さく突く。この間、手はポケットに入れて温めてはいけない。だって見た目が変でしょ。
 ここまで終えて、釣鐘に向かい、合掌して次の言葉を唱える。

 「天下泰平 万民豊楽 三界万霊 成三菩提(亡くなった人もふくめて、みんなが安らかでいられますように)」

 私はそれまで何百回、釣鐘を突いたか分からないが、この日はいつもと違った。
 “天下泰平……”と唱えながら合掌した手の感覚に、生まれて初めて気がついたのである。
 “へえ、俺って温かいんだな”――不思議にもすくめていた首が伸びたことを今でもおぼえている。

 ニュートンの引力を引き合いに出すまでもなく、当たり前のことを意識しないことがよくある。しかし、当たり前のことを本当の意味で意識できると(そのためには心が落ち着いていないとムズイ)、心の密度が少し濃くなるような気がする。
 そう言えば、小学生の時に飼っていた犬を散歩していた途中、犬がジッと空を見上げたまま1分ほど動かなかったことがあった。
そのことを兄に話したら「きっとこの犬にとって、初めて“空”を意識した場に立ち合ったんじゃないか」と言われたことがある。あれからレオナルドという名のチャウチャウが、妙に哲学者っぽく見えたものだ。

 さて次回は掛川市の“ひじき”さんからのリクエストをそのままいただいて、「捨てる神あれば拾う神あり」でいきましょう。最近よく感じる“結果論的お説教”のイヤラシサを私と分け合って、私の心をいくらか軽くしてくださいませ。