ちょっといい話

第155話 捨てる神あれば拾う神あり

挿し絵  渡る世間に鬼はなし←→人を見たら泥棒と思え

 諺(ことわざ)は、その多くが、膨大な過去の経験(自分が生まれる前も含めて)が元になって今に伝えられている。だから全く正反対の諺が出現することが多々ある。

 どんなことでも自分の人生を肯定的に、お人好しに過ごしてきた人にとっては、どんなに悪い人だってトコトン悪魔のような人はいない。否、いなかった事実が“渡る世間に鬼はなし”になり、「世の中まだまだ、捨てたモンじゃない」とにっこりできる。
 一方で、詐欺やスリに遭った人にとっては、人は信用するとこっちが損をする、あなたも気をつけなさいと“人を見たら泥棒と思え”と諺る(コトワザル:諺を言うの意。私の造語である。無断使用許可……と言っても誰も使わないか)。

 これら膨大な諺は、それを体験した人から未体験者(もしくは、体験したての人)に“だから昔から言うじゃないか、○○○○だって”と使用されることがほとんどだ。
 今回の“ひじきさん”からのお題である“捨てる神あれば拾う神あり”も、過去の事実から(つまり結果として)、誰かを幸運な運命から引きずりおろすような事もあれば、そういう人が再び登用されることもあるんだ、だから落ち込んでばかりいないでしっかりやりなヨ、という(結果論的)励ましの言葉として使われる。
 ところが、経験をしていない人、あるいは体験したことが骨身に染みていない人にとっては“そういうもんですか”で終わってしまう。

  犬も歩けば棒にあたる
      ―――歩かない人には実感がないのだ。

  禍福は糾(あざな)える縄のごとし
      ―――禍の真っ只中にいる人はなかなかそう思えるものではない。

 実は、親が子供にするお説教も似てるな、とここ2年ほど思うようになった。

 “いま勉強しておかないと後で泣きをみるぞ”
 “早く寝ないと朝起きるのがつらいぞ”
――どれも親の実体験であるが、結果論である。いま泣きを見ているのは若い頃勉強していなかったからで、朝起きられないのは夜更かししていたからなのだ。しかし、これでは未体験者には説得力がない。今勉強しないで他のことに熱中し、起きていたいほど今やることがある子供にとっては「そうかもしれないけど……」と釈然としない。

 いけねえ、偉そうに書いたが、お説教と言えば坊さんの専売特許だった。“今”を語るように気をつけなければならないのは、私でした……

 さて、来週は私も応援している熱い若者、シンガー・ソング・ライター“森源太”君のことを、2月19日新宿での彼のライブ報告と共に書き綴ってまいります。
 題して“正直であること”。次回は、熱いぜ!