ちょっといい話

第157話 異説 不動明王

挿し絵 世の中に流布している(と言っても多分200人くらいしか言ってない……)の中に次のようなものがあります。
“お不動さまには、座っているものと、立っているものがありますが、立っているお不動さまをまつってあるお寺の住職はいつも出かけてばかりです。逆に、座像の場合、そこの住職はほとんど寺にいます”
 これは真実だろうと思います。だって、密蔵院のお不動さまは、堂々と立っていらっしゃいますから。
 この噂話のありがたいのは、私が寺を留守がちで檀家の皆さんに迷惑をかけていることが、私のせいではなく、実は檀家さんの先祖が立像のお不動さまをまつったせいだという責任転嫁にもってこいの根拠になるからです。

 さて、本題。
ここ三年ほど、とても気になることがあります。それは、お坊さんの話はどれもこれも「最初に仏ありき」という前提で話が始まるということ。
真面目な顔して
“亡き人も仏さまに救われていくことでしょう”
“仏さまの国のことを浄土といいますが……”
―――ありがたいことに、多くの日本人はこういう話でも、そういうものかと思ってくれますが、反骨精神旺盛な方、唯物主義の方はそうはいきません。
もちろん“仏とは悟りを開いた人のことです”なんてただ説明しても納得してくれません。どこにいるんだ?となります(じつは私がそうだったのです)。
 そこで、今回は、お不動さまという仏さまはおっかない顔してて、右手に剣を持って人々の煩悩を切り、左手に縄を携えて人々の悪い心が暴れ出さないようにふん縛りなんて話はしません(と言いながら半分してシマッタ)。
 お不動さまという仏(ホントは明王)を納得するためのキーワードはその名前である“不動”。ここから、皆さんに、仏教の面白さを垣間見ていただこうと思います。

 不動は、文字通り、動かないということです。だから座っている像があります(こういうのを“動かないぞう”といいます――というのは冗談です)。
しかし、動かないのは身体のことではなく心の状態の事です。
もうふらふらしていない心の状態です。
今流に言えば「よっしゃ、やるぞ!」という“心が不動の状態”です。だって、何かを決めたわけですから、ちょっとやそっとじゃ心変わりしないでしょ。そういう人のことを“不動”って言います。

 うーん、駄目だ。ここからが面白くなるのに……
 続きは次回“続説 不動明王”で。動かないから動くというトリッキーな論法で進めます。