ちょっといい話

第158話 続説 不動明王

挿し絵 今回は前回の続きで、不動明王ってホントにいるの?という皆さんの素朴な?から強引に引っ張って書きます。

 さて、身体ではなく、心が動かない(何かを決心した)状態が不動明王の“不動”です。しっかり考え方ができている人って、周りにいるでしょう。なにも全人格的に不動じゃなくてもいいんです。事に応じて、時に則してしっかりした考え方を持っている人です。

 以下は誰か具体的にどなたかを思い浮かべてお読み下さい。お父さん、お母さん、兄弟、友達、先輩、知り合いなど、だれでも結構です。
 そういう人ほど、自分には厳しいものです。何かをするためには、万難を排して進む。こっちのほうが楽そうだ、などと易(やす)きに走るような妥協はしない人です。まるで心の剣で弱い心を断ち切るようです(それを象徴して不動明王は右手に剣(つるぎ)を持っています)。
 また、ついつい心がフラフラとしてしまうような時にも“これはイカンぞ”と心を引き締める―――そんな心の状態を、左手の縄で表しています。
 他にも、事にあたって、その燃えるような情熱が、些細な心の迷いを燃やし尽くすようなこともある――それが背にする火炎の意味する所。
 その人が、いい意味で他の人のために何かをする不動の心を持っている人(たとえば子供のためを思う一心でわが子を叱る母親)であれば、その心が、お不動さまの頭の上にある蓮の花となり、また束ねた髪を左に流す姿になります(左は仏教で衆生のこと)。

 さて、ここまで自分以外の誰かを思い浮かべて読んでいただきましたが、ご自分はどうですか?以上のような心――そのかけらもないですか?いやいや、きっとあるはずです。
 かつて、自分の中に、そんな力強い不動の心を意識した人がいた。その時、不動明王という仏が誕生した……。私はそう考えています。
 そして、心が不動であれば、何かをするために、身体が動くことになります。
 (心が)動かないから、(身体が)動くのです。
 だから、お不動さまの身体は筋骨隆々です。密蔵院の本尊さまである不動明王の前に座った時、私はいつもこう思うんです。

私の心の中の、いい人になろう、いいことをしようという勇気、出て来い!その勇気は必ず私の心の中にある筈だ。その目の前のお不動さまの像は、そのための増幅器。その増幅器にスイッチを入れるための合掌だ……

 座から立つ時、不思議にも「よっしゃ、やるぞ!」という気持ちが湧いてきます。―――これが私の仏教へのアプローチの方法なんです。

 さて次回は久しぶり、みみなさんからのリクエスト“人は死んだらどうなるのですか?”に応える(答えるじゃないかも)形でいきます。
題して“草葉の陰”。日本人の霊魂観念をご紹介しつつ話を進めて参ります。