ちょっといい話

第160話 元いた場所

挿し絵 今回は前回(第159話 草葉の陰)からの続きです。まずそちらをお読みください。

「亡くなったお父さんが6年たった今ごろ、お坊さんのあなたは、どこにいると思うの?」
「俺?」
「そうよ、あなたよ。あなたはどう思うのよ!」
「俺は、元いた場所に戻っていると思う」
「元いた場所ってどこよ」
「まだ生まれる前にいた所だよ。父親の精子でも、母親の卵子でもなかった時にいた場所さ」
「……?」
「俺たちって、精子でも卵子でもなかった時にいた場所があると思うんだ。なんか前世みたいな話だけど、俺はそこにいた……そんなかすかな記憶というか、確信があるんだよ」
 家内はますます????
「その場所のことを、あの世とか、天国とか地獄とか、浄土とか言ったりするんだろうけど、俺たちは、死んだらそこへ戻って行くと思うんだ」
――これを言った4年前には、感じなかったが、今この文章を書いていると、確かに自分自身、過去何十万回もそれを繰り返していたような気がする。

 元いた場所――それを自然と考えれば、人は死んだら自然に帰る(否、環るダナ)という表現になる。宇宙と考えてもいいだろうし、ドラえもんのパラレルワールドではないが、別の次元と考えてもいい。その別の次元も含めた時空観という考え方もあるだろう。それは人それぞれ呼び方が違うだけだ。

 実は前回からの話の土台になっている“人は死んだらどうなるのか”という“みみな”さんのお題には、死んだら意識もなくなってしまうのでしょうか、という疑問も付記されていた。
 私は、元の世界にもどった時、個性といえる程の意識は残っていないだろうと思ってます。でも、あなたが、頬を撫でる春の風に「気持ちいい風、ありがとう」と思える感性があれば、青空に流れる雲に「そっか、のんびりやれよって教えてくれてるのか」と感じる感受性があれば、お葬式の日の雨に「なみだ雨……天地も悲しんでいる」と雨を手のひらで受ける心の余裕があれば、元いた場所にも、亡くなった人たちの、これから生まれてくる命たちの意識があるということになりはしないでしょうか。

 さて今回はロマンチストみたいな書き方をしたので、次回はこの続きを、宗教学の成果からアプローチしてみます。題して“恐怖霊から祖霊へ”。勉強したい人、寄っといで!