ちょっといい話

第165話 アイデンティティ

 さて、今回は「私は誰?何者?あなたとどう違うの?」というアイデンティティについてです。
大辞林を引いて今回の内容に合致する解説を見てみると、
 アイデンティティ(同一性)[identity]《哲》人間学・心理学で、人が時や場面を越えて一個の人格として存在し、自己を自己として確信する自我の統一をもっていること。自我同一性。主体性。
――とあります。
「自我の統一をもっている」というのは、キーワードですね。別な言い方をすれば、他と比べて自己確認をする必要がない自我ということでしょう。

挿し絵 今回のリクエストをくださったtomoさんは(三十路)という注意書きがしてありました。……ということは、団塊ジュニアと呼ばれる世代です。第二次大戦が終わり、男たちが戦う必要がなくなって、昭和22〜24年にドッカーンと子供たちが生まれました。日本の人口のなかで、突出して大きな塊(かたまり)を形成しているので、この世代を堺屋太一さんが“団塊の世代”と命名しました。その子供たちが団塊ジュニアです。
 団塊の世代は大勢いるので、自然と競争が激しくなりました。加えて物がない時代でしたら競争に勝つことは、家の中に物が増えていくことでもあり、「昨日の自分」より「今日の自分」のほうが物質的に豊かになるという「神話」のあった世代です(今やその神話は崩壊しましたが)。数年前のトヨタのCM「いつかはクラウン……」はまさにこの世代の心情に今一度火をつけようとするものだったのです。

 一方で、競争は学歴による差別化を生んだといわれます。それがやがて偏差値教育となります。テストで何点取ったかではなく、全体の中で自分はどの位置にいるかで自己確認する、つまり比較による自己確認を流れの中に、日本全体が巻き込まれていくことになります。(……ヘンダナ。今回は社会学か経済学のエッセイみたいになってるゾ。まあいいやもう少し続けよう……)

 えーと、つまりですね。今は、物が増えていくことではアイデンティティを持てなくなっています。そして、偏差値のおかげで、同学力の人がみんな同じ大学に集まります。卒業すれば、企業はマニュアルで教育します。そのほうが、教える方も教わるほうも効率的だからです。
結果として、自分じゃなくても他に代わりがいくらでもいることになります。このような社会の価値観では、もはや「かげがえのない自分」を探すのは困難です。
 団塊の世代はまだ競争によって他とは違う自分を確認できました。そしてそろそろ60歳をまえにしても、その心意気が残っています。現在30代の団塊ジュニアは、その精神を受け継いでいながら、親たちが持っていた価値観では「自分らしさ」が見つからない社会に身をおくことを余儀なくされているんです。

 ごめんなさい。本題に入る前に、予備知識で終わっちゃいました。この続きは次回“比べちゃ、ヤーヨ”まいります。