ちょっといい話

第188話 命の日

挿し絵 私は先週誕生日でした。満48歳になりました。
 ――と、これは法律上のお話。
 日本の法律では、オギャーと生まれてから人として権利や義務が発生するという話を聞いたことがあります(だから、お母さんのお腹の中にいる時は人ではないということらしい)。
 しかし、どう考えても、お腹の中で手足を動かしている赤ちゃんは人であり、まぎれもない命です。だとすると、10月生まれの私が受精して命になったのは、私の誕生日よりも約40週前ということになります(それまで十ヶ月と十日で生まれると思っていたら、実際の計算は40週なのだそうだ)。つまり昭和33年の1月半ばに命になったんです。
 これを実感してから、私は1月という月に思い入れが強くなりました。まるで誕生日がもう一つ増えた気分です。よって、来年の1月半ばで、私は命になって丸49年をむかえることになるのです。

 今回のタイトルは“命の日”ですが、“の”を削ると“命日”になります。人が亡くなった日のことです。これって不思議だと思いませんか?命が無くなった日なのに“命日”です。
 一説によると、もともと「冥土へ行った日」で“冥日”と書いていたようです。この「メイ」を、“冥”から、読みが同じである“命”に変えた人がいるんですね。スゴイ人がいたもんです(個人的にはそれがお坊さんであってくれたらいいなあと思います)。
 こちらの人生の役割分担を終えて、あっち(あの世、浄土、天国とか色々な言い方がありましょうけど)の世界で“命をもらった日”という意味で“命日”です。なんと壮大なロマンでしょう。ですから白い死装束は、実は“あっち”で生まれる時の産着だとも言われます。
 そしてもう一つ、亡くなった日である命日は、残っている者たちが、亡き人のことを自分の人生に照らし合わせて、自らの人生を、命を考える日としての“命日”でもあるような気がしてなりません。

 誰かの誕生日パーティを本人に内緒で企画、実行するサプライズパーティがはやっています。できれば、企画する方には、オギャーと生まれた日より40週前に命になっていたことにちょっと触れてもらえたらいいなあと思います。
 目に見える姿にならないと命が実感できないというのは、もったいない話です。

 そうだ。目に見えないもので思い出した。次回は、私の大好きなシンガーソングライターの遠藤芳晴さんの歌をご紹介しながら進めます。題して“心の太陽あらわそう”。やさしく、そして、元気になれますよ。