ちょっといい話

第198話 三日坊主

挿し絵 今回のお題は“都鳥”さんからの「三日坊主」です。
 で、“三日坊主”の語源が気になって調べたら、
「僧の修業というのは朝早くからのお勤めにはじまり、規則正しい生活を送らねばならず、また食事も粗食です。つい、衝動的に頭を丸めて坊主を志した人でもその実態に触れると並大抵の心構えではとても長続きしません。こういう人は三日も立たないうちにねをあげて俗界にもどってしまうのが常です。こうしたことから“三日坊主”という言葉が生まれました」
(日本語探検隊編「言葉の不思議なぜナゾ辞典2」KKベストセラーズ)

 へえ、正直なところ、坊さんでありながら私は48歳にしてはじめて知りました。その意味も、僧侶の生活はそんなに厳しいものなのかということも(面目ねぇ……)。
 私の期待としては“三日坊主”という言葉は「乞食と坊主は三日やったらやめられない」という系譜に属してほしかった。坊さんはそれほど素晴らしい生き方なのだ!という流れで「三日坊主」という言葉を使いたかったのです。

 実はこの“三日”というのは単に短い期間という意味で使われていると説明されているものもあります(「三日天下」「三日見ぬ間の桜」など)。
 しかし、私はこれを「三回」がキーワードではないかとひそかに思っています。何でも三回経験すると、ものごとが見えてくるということなのではないかと思うのです。
 その代表格が「石の上にも三年」という言葉。何か新しいことをはじめて春夏秋冬が三回めぐる間に、おのずと分かることがあるということでしょう。
 無我夢中でやり始めた頃に見た桜、耳にした蝉時雨、掃き集めた落ち葉、襟を立てたコート。二年目は、その季節の思い出と共に、初心の頃を思い出す余裕が出てきます。そして、迎える三回目の桜、新緑、入道雲、紅葉、クリスマス、お正月……。その間にやっていたことが厚い経験値となって、そのまま継続しても、やめても、次のステップに引き継がれていきます。
 三日坊主も、単に「飽きっぽい」ことを揶揄する言葉というより、朝、昼、晩の坊主の生活を三回繰り返すことで、自分に出来るか出来ないかを判断したというふうに取りたいのです(ある意味で、潔いではあ〜りませんか)。

 今やりたいことを、とりあえずやってみる――で、三回を目安に再考してみる。そう言えば、かつて友人のお見合いの仲介をした時に、年配の人に「お見合いのルールはお見合いの後2回会ったら、仲人さんに、やめるか、付き合いを続けるかを報告しないといけないものだ」と聞いたことがあります。先人の知恵ですねぇ。
 何が何でも我慢して続けることが目標になってはいけないのです。目標がないと我慢などできないものです。目標設定をどうするか……それが大切です。仏教の場合は、「仏さまのようになりたい!」が目標です。

 さて次回は、このお正月に何度も質問された「お正月の墓参りはダメですか?」を受けた緊急企画!“いい加減にしてください!”でいきます。
 世の中には、困った人がいるものです。