佐藤俊明のちょっといい話

第1話 念ずれば花開く

念ずれば花開く 挿絵

 小さな小さなタネを蒔き、水をやり、肥料を施し、太陽の恵みに会うと、苗はスクスク成長し、やがてはきれいな花を咲かせ、素晴らしい果実を実らせる。どんなに高価な花のタネでも同じことで、蒔いて大切に育てれば愛情も湧き、育てていけばいくほど可愛くなるはずである。
 「念ずれば花開く」
これは詩人、坂村真民さんの詩の一句である。言い得て妙。よく引用される名句である。
 「念ずる」
とは、いつも心に思うことなので、一粒のタネを蒔き、苗を育てるのと同じように一つの願い事をいつも心にとどめ育てると、やがては成就の花が咲くのというのである。そして、
 「花開けば必ず真実を結ぶ」(道元禅師)
にいたるのであるから「念」は初心を貫徹し、願い事を成就する原動力である。

 私が住職をしていた龍光寺参禅会が発足して十年になるが、いまでも、
「坐禅会があるそうですね。日時は?服装は?寺までの道順は?・・・・・・。では次の坐禅に行きますから」
といったふうの電話が時折かかってくる。電話の主はほとんどが名乗らなし、聞いても返答をしぶるのが通例。そしてこうした電話の主が参禅に来たためしがないのも通例のことのようである。
思うにその時は坐禅してみようと思ったのであろう。だからこそ電話したのであろうが、さて当日になってみると、暑いの、寒いの、雨だの、風だの、寝不足だの、イヤどうも億劫だの、なんだ、かんだでエンジンが始動しない。
心に思ったことが消えてしまって「念」にまで成長しない。これでは床の上にタネを落としたようなもので、芽もでなければ、苗も育たず、花の咲きようもない。

 お釈迦さま最後の説法である「遺教経」に「不忘念の功徳」が説かれている。わかりやすく要約すると、
仏道の修行は、善知識(よく指導者)と善護助(同行の善知識つまりよく同僚)を求めることが大切だが、不忘念すなわち「念」を失わないことがいちばん大切である。「念」を忘失するものはもろもろの功徳(よい果報をもたらすもととなる善行)を失い、仏道を成就することができなくなる。だからこそこの「念」をつねに胸におさめておかなくてはならぬ。念力が堅固かつ強靭であれば、鎧を着て陣にはいるようなもので、おそれることがなく、五欲(財欲・色欲・食欲・名誉欲・睡眠欲=バクバク儲けて、色気と食い気を存分にたのしみ、苦労せずに有名になりたい)の誘惑に負けることがない、というのである。
 参禅会に一度出席してその名を名簿に書きとどめた人まで含めると、龍光寺参禅会にかりそめの縁を人の数は二百人を超すであろう。そうした人びとの中で約一割の人が十年一日のごとく参禅を続けている。これはまさに不忘念の大士である。それぞれに肉眼では見えぬ心華が美しく咲き綻んでいることであろうし、やがては真実を結ぶことであろう。
「不忘念」の功徳は、仏道修行に限ったわけではなく、人生万般に通する道であり、そこにこそ「念ずれば花ひらき」「花開けば必ず真実を結ぶ」道理があるのである。

念念相続:一念もやすまないこと。常におもいつづけ、間断のないさまをいう。

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