佐藤俊明のちょっといい話

第4話 無きには如かず

無きには如かず 挿絵

「好事も無きには如かず」

 好事とは読んで字のとおり、よいこと、結構なこと、めでたいことであり、これは誰もが望むところのものである。
その好事も、

「無きには如かず」

すなはち、

「有るよりはむしろ無い方がましだ」

とはいったいどういうことなのか。「好事魔多し」といって、好い事にはとかく邪魔が入りやすいものだから、好事ははじめからないほうがよい、といったふうに解釈されやすいが、実はそうではないのである。
 これは禅門で有名な『碧巌録』の第八十六則(章)に出てくる言葉で、どんなよいことでも、それに捉われの心を起こすようでは、むしろ無いに越したことはないというのである。
 禅は転迷開悟の教えであり、その教えにしたがって修行を積み重ねて悟りを開く。悟りに達することは容易なことではないだけに、悟りを得たときの歓びはまたひとしおで、手の舞い足の踏むところを知らぬ法悦の極致である。
 それだけに、ともするとそれに捉われ、己れが力量を鼻にかける者も出てくる。そうなるとこれは俗臭ふんぷんたるナマ悟りにすぎない。
 味噌の味噌臭いのは上等の味噌でないと同じように、悟りの悟り臭いのはほんとうの悟りではない。
 ナマ悟りなどはむしろ無い方がましである。
 だから禅では悟後の修行を強調し、精進に精進を重ねて臭みを抜き、さらには悟ったことも忘れ去ることが肝要だと教えている。
眼をギラギラさせているようではまだまだ未熟な証拠である。
私どもの周囲には、己れの力を誇示して大言壮語する者がいるが、こんな力ならむしろ無い方がはるかにましである。

昨晩のテレビ番組「笑点」で、

「美人と絶世の美人の違いは?」

という問いに、おもしろおかしく答えが述べられていたが、なかに、

「化粧してきれいな人が美人で、化粧しなくてもきれいな人が、絶世の美人」

というのがあって、“なるほど”と思った。
 年齢や個性や容貌に合った適切な化粧なら、本人の美しさも引き立て、他人にも好感を与えるのだが、度の過ぎた厚化粧や染髪や整形手術などで、持って生まれたもののよさをつぶしているのは、本人の自負とは逆に不美人としか見えない。
こんな人を見ると、

「好事も無きには如かず」

化粧もせぬには如かず、待ち前の美しさを出したらと思う。

また、豊かな財力に恵まれることは好事であるが、

「金持ちと灰吹き(タバコの吸いがらを入れる筒)は溜るほど汚い」

という昔からの言葉があるように、金が溜まると、いよいよ欲が深くなり、守銭奴といわれ、金の亡者といわれて嫌われるが、こうなると金も無きには如かず、富も清貧には如かず、である。
良寛さまは、

「詩の詩人くさいのと、料理の料理人くさいのと、書の書家くさいのは、まことに鼻持ちならぬ」

といった意味のことを言っているが、どんなにりっぱなことでも、その臭みが残っているようではまだまだ本物とはいえないのである。

好事不如無:「好事も無きには如かず」と読む。「好事も無(む)には如かず」と読むべきだと言う人もある。「無」以上の好事はないという意味である。なお「好事(こうず)」と読めば「好事家」ものずきの意になる。

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