佐藤俊明のちょっといい話

第7話 保険と観音さま

保険と観音さま 挿絵

 「福聚海無量(ふくじゅかいむりょう)」

 これは『観音経』の末尾に出てくる言葉である。

 「福聚」は福の集まること、それが海のように広大で洋々として、しかも無量であるというのであって、これは観音さまの徳を讃えた言葉である。

 さて、梵語に「ダーナ」という言葉がある。これの日本語化したのが「旦那(だんな)」である。「うちの旦那」「どこそこの旦那」などと平生よく使われている言葉で、これは、与えること、施すことが本来の意味で、それを漢語に意訳したのが「布施」である。
 今日では僧侶への読経の謝礼金ぐらいにしか使われていないが、布施の布は心を普くゆきわたらせること、施は人にものを恵み与えること、つまり、いつくしみの心をもって、ひろく施しをすることである。
 布施にはまず「財法の二施」といって、法施と財施がある。
 菩提寺(一家が代々帰依する寺)のことを旦(檀)那寺ともいうが、これは寺が法施、仏の教えを施してくれるところだからである。これに対して旦(檀)家(特定の信者)というのは、寺の法施に対して物を施す、財施をするところだからである。
 この財法の二施、バランスがとれて行われればよいのだが、法施をさぼって財施をむさぼるから「坊主丸儲け」といわれる。
 この財法の二施にいまひとつ、無畏施(むいせ)を加えて「三種の布施」という。
 無畏施とは、畏、すなわち不安や恐怖、それを取り除いてあげることで、観音さまのことを施無畏者という。
 浅草の観音さまの本堂正面に「施無畏」と大書した素晴らしい額が掲げてあるのをご存知の方もおられるかと思う。観音さまは三十三観音といわれるように、時と場合と相手に応じ、姿を変じて現われ、布施をおこない、衆生(生きとし生けるものすべて)の不安や恐怖を取りのぞいてくださるから、無畏を施す者、施無畏者といわれるのである。

 さて、私ども生きてゆくうえにおいて、何が恐ろしいといって、前途に待ち伏せしている災害ほど恐ろしく、また不安をかき立てるものはないであろう。
 そのような不慮の災害から私どもをまもり、不安や恐怖を取り除いてくれる保険はまさに無畏を施す慈悲行であり、保険業務に携わる人々は実に施無畏者、つまり観音さまといってよいであろう。
 観音さまのことを別名・慈母観音、非母観音とかいうように、観音さまは慈悲の権化であるといわれる。そこで経文は、

「慈眼視衆生、福聚海無量、是故応頂礼」
(じげんじしゅじょう、ふくじゅかいむりょう、ぜこおうちょうらい)
(慈眼をもって衆生を視、福聚の海無量なり、是の故に応に頂礼すべし)

と結ばれている。

 保険業務はギブ・アンド・テイクのセールスであり、ビジネスであろうが、その根底に「慈眼視衆生」観音の慈悲があってこそ、福のあつまること海のごとく無量となり、「是故応頂礼」多くの人々によろこばれ、感謝されるようになるであろう。

福聚海無量:観音さまは、いつくしみの眼(慈眼)をもって人々(衆生)をみそなわすので、しあわせ(福)の集まること、海のごとく無量である。

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