佐藤俊明のちょっといい話

第8話 水を掬し花を弄する

水を掬し花を弄する 挿絵

 私たち人間の意識は、眼で物を見、耳で声を聞き、鼻で嗅ぎ、舌で味わい、体で触れるというふうに、五官の窓をとおして物事を分別している。このはたらきを総括して「見るもの」といい、「主観」といい、また「自」などといい、その対象を「見られるもの」「客観」「他」という。

 私たちは「見るもの」と「見られるもの」が対立しているなかに生活しているが、この対立を超えた、つまり頭をとおさない、分別を超えた世界がある。

水を掬すれば 月 手に在り

花を弄すれば 香 衣に満つ

 この対句は、分別を超えた自他一如の妙境を、美しく文学的に表現したものである。
 清らかな水を両手で掬うと、月が掌中の水に宿る。中天に晧晧と冴えわたる「見られるもの」としての月が、「見るもの」としてのわれと一体になる。
 馥郁たる香りを漂わせる「見られるもの」としての美しい花を手折ると、その花の香が衣に移り、「見るもの」のわが全身から芳香を放つ。
 月とわれ、花とわれが不二一体となる。この心境を日常生活にあてはめると、「読書三昧」「仕事三昧」「ゴルフ三昧」などといわれる三昧境(ある事に没頭して雑念を離れた忘我の境地)であり、

「鞍上人なく鞍下馬なし」

人馬一体のすがたである。

 徳川三代将軍家光に、朝鮮から虎が献上された。
家光は柳生宗矩に、
「虎の檻に入ってみよ」
と命じた。
 宗矩は檻にはいり、刀を構え、ジリッ、ジリッ、と虎に迫った。虎はうなり声をあげ、眼をいからし、いまにも飛びかからん物凄い形相だったが、ついに宗矩に威圧され、視線をそらした。
「勝負あり!」
さすがは宗矩と絶賛を博した。
 次に澤庵和尚が檻に入ることになった。
 和尚ノコノコ虎の前に進み、犬や猫をかわいがると同じ仕草で虎の頭をなでた。虎もまた、子猫のように目を細め、澤庵の体に頭をこすりつけていたという。
 いかにもできすぎた話のようだが、ムツゴロウと猛獣の出会いをテレビで見ているとまんざらでもなさそうな気もする。それはともかくとして、柳生宗矩と澤庵和尚の違いは、「対立の世界」と「一如の世界」の違いである。

 次にこの句は、「朱に交われば赤くなる」ということを教えているとも受け取れる。人間というものは、交わる友人や育つ環境、あるいは趣味嗜好などによって、いつしかその影響を受け、その品性が高尚にもなれば下劣にもなるものである。
 道元禅師の『随聞記』に次のような教えがある。

 昔の人は、「霧の中を歩くと、知らない間に着物がしっとりする」といっている。すぐれた人に親しんでいると、気がつかないうちに、自分もすぐれた人になるというのである・・・・・・

 さらにいまひとつ、この句には何事も工夫努力を重ねれば、自然にその妙を会得することができる、という意をあらわしたものとも解されている。

掬水月在手 弄花香満衣(みずをきくすればつきてにあり はなをろうすればかおりころもにみつ):この句は、もと中唐の詩人・干良史(うりょうし:生没不祥)の「春山夜月」と題する詩の中の二句。虚堂智愚禅師(きどうちぐぜんじ:1185-1269)がこれを禅的に解釈して使ったため、禅語として愛誦されている。

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