佐藤俊明のちょっといい話

第10話 花 誰が為にか開く

花 誰が為にか開く 挿絵

「春色高下無く、花枝自ら短長」

という句がある。
 春の気色、風情には高下の別はないが、花をささえる枝にはおのずから長短があるように、人間はじめ禽獣草木すべては宇宙の大生命の発露であり、本体的には「春色高下無し」で一味平等なのだが、その姿形やはたらきは「花枝自ら短長」千差万別である。この現象面を象徴的に説いたのが

「柳は緑、花は紅」※1

の一句である。
また、

「百花、春至って誰がためにか開く」

という句がある。
 花は春になると百花爛漫として咲き競う。
 花は誰のために咲くのか。
 人に見てもらうためなのか。
 鳥や虫を呼ぶためなのか。
 春を告げるためといっても、早春に綻ぶ花もあれば、晩春をいろどる花もある。花は他の評価を期待したり、思惑を気にして咲くのではない。本来具わった天分が時節因縁を待って開花するだけのことである。
 花だけではない。
 この世の一切の事々物々は天真自然の妙で、持って生まれた天分が内から躍り出たものである。人間も同じことで、

「人々これ道器(道を修めるのにたえる器量)」

といわれるように、人それぞれ個性や才能や使命をもっているが、それは他人のためのものではなく、その人その人に与えられた、かけがえのない天分である。
 その天分が時節因縁の順熟を待って開き顕れるのであり、「柳は緑、花は紅」そのままの風光である。したがって人のことを気に病むこともなければ、人の注目を浴びないからといってしおれたり、人にもてはやされていい気になったりするのは愚かしいことである。そんなことをとやかく思い煩らうことなく、自分の本領、持ち味をいかに発揮するかに心を砕くことである。

今年は(平成六年)は「犬も歩けば棒に当る」戌年。※注釈
この短い一句、なかなか含蓄がある。
まずは、<も>の一字で、<も>の生まれてくる前提が示されていない。「猫が歩けば棒に当る」なのか「猿が歩けば・・・・・・」なのか、それが特定されていない。ここから、犬も歩けば棒に当るのだから、私ども人間だって歩けば棒に当るんだゾということになり、犬の問題ではなく、身近な自分自身の問題として考えよと、注意を喚起している。
 次は、棒に当たって痛いのか痒いのか、それとも快感を覚えるのか、損か得か、それには一言も触れず、ただ「棒に当たる」で打切っているところがおもしろい。
 物事は、その時その時の条件次第で変わるのみならず、その人その人の受け止め方が違う。柳の緑をこよなく愛でる時もあれば、花の紅を疎ましく思う時もある。そうかと思えば柳をうらむ人もあれば、花に浮かれる人もある。だから第三者が軽々しくとやかく論断すべきものではない。心広く高く明るくあるがままの姿をあるがままに見ることが肝要である。

 蘇東坡(そとうば ※2)居士は、自然のありのままで姿に不変不動の真理が宿っていることを直視し、「柳は緑、花は紅、真面目(しんめんもく)」と道破している。
「柳は緑、花は紅」こそ本来のありのままの姿である。本来の真面目でなければならないのである。

※1【柳緑花紅】
柳はみどり、花はくれない。
見たまま、そのまま、いずれも真理の具体相。
転じてさとりの実態をいう。さとりとは本来の姿をそのままに受けとめるさまをいう。

※2【蘇東坡】
中国の宋代を代表する詩人。詩だけでなく、散文、書、水墨画でも優れた作品を残している。

本文は、住友海上火災保険株式会社刊行の「代理店通信」誌に平成6年に発表されたお話です。

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