佐藤俊明のちょっといい話

第12話 成り切る

成り切る 挿絵

 本稿を書いている只今は寒さの真ッ最中。兵庫県南部地震の五日目。(※注釈)
大地震で生活のすべてを一挙に奪われた被災者の方々の心痛、労苦はいかばかりか。それを思うと、寒さなどとはいっておられないのだが、「今朝はまた格別寒い。この寒さ、なんとかならんものか」と思うことがある。

 さて、九世紀の頃、中国は唐の時代、洞山良价(とうざんりょうかい)という偉い禅僧がおった。この洞山大師に、ある僧が訊ねた。

「寒暑到来。如何が廻避せん」
   こう寒(暑)さがきびしくてはやりきれません。この寒(暑)さからのがれるにはどうしたらいいでしょう。

というのである。
 たぶん、今日のような寒い朝でのことか、または酷暑の夏の昼さがりでの質問かと思う。
 洞山、答えていわく、

「なんぞ無寒暑の処に向かって去らざる」
   暑くもない、寒くもない処へいったらいいじゃないか。

「如何なるか是れ無寒暑の処」
   そんないいところ、いったい、どこにありますか。

 洞山いわく、

「寒時は闍梨を寒殺し、熱時は闍梨を熱殺す」(かんじはじゃりをかんさつし、ねつじはじゃりをねつさつす)

と。ここに「闍梨」とは「阿闍梨」の略で、本来は、師範たるべき高徳の僧のことだが、高位の大将を「オイ、大将!」などというように、ここでは「お前さん」といったようなもので、寒いときはお前さんを寒さで殺せ……。
 つまり、「寒いときには寒さに成り切れ、暑いときには暑さに成り切れ。それが無寒暑の処だ」
と答えた。

 問答はこれで終わっているので、多少蛇足を加えると、大自然の中に生きている以上、私どもは暑さ寒さからのがれることはできない。しかし、それにまつわる不安や不快感を除くことはできる。
 私はお盆を迎えるころになると気が重くなる。この暑いさなか、ころもを着て一軒々々読経してまわらねばならぬのかと思うと、暑さのない処にゆきたくなる。ところがいざまわりはじめて汗だくになると、もう暑さなど気にならなくなる。
 同様に、背中をまるめてコタツにもぐっておれば、とても吹雪に立ち向かう気持ちにはなれない。しかし、身支度をととのえてスキーに出かけるともなれば吹雪もまた楽しいのである。
 してみると、暑い寒いそのものではなく、暑さ寒さにまつわる分別妄想を苦にしているのである。これは暑さ寒さだけのことではない。私どもは是非善悪、利害得失等々、すべてを相対的に見ており、自分に都合のいいものは引き寄せ、不都合なものは遠ざけようとする。そして事が意のままに運べばよろこび、意に添わねば嘆き悲しむのである。
 この取捨増愛と妄想分別の自我(闍梨)を去らない(殺さない)限り、言葉を換えれば、心頭を滅却しない限りさわやかですがすがしい無寒暑の別天地はあらわれてこない。

 武田家の恩顧に殉じて節を曲げなかった快川和尚(かいせんおしょう)は、

「心頭を滅却すれば火自ら涼し」(しんとうをめっきゃくすればひおのずからすずし)

と唱えて火焔裡に大往生した。

心頭滅却(しんとうめっきゃく):「安禅は必ずしも山水を須いず。心頭を滅却すれば火自ら涼し」は「碧巌録」第四十三則「洞山無寒暑」の評唱にある句。俗間「火も亦涼」というが、これではりきみ返ったやせ我慢、心頭滅却とは言えない。

注釈:本文は、住友海上火災保険株式会社刊行の「代理店通信」誌に平成7年に発表されたお話で、「兵庫県南部地震」は、掲載当時の阪神大震災の呼称です。

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