佐藤俊明のちょっといい話

第13話 和敬清寂

和敬清寂 挿絵

 これはもともと禅の言葉であるが、茶道の祖といわれる村田珠光が、足利義政から茶の精神をたずねられたとき、「和敬静寂」と、答えたということで、この一句四文字の真意を体得し実践することが茶道の本分とされる。

   和は、和合、調和、和楽の意。
   敬は、他を敬愛する心。
   清は、清潔、清廉の義。
   寂は、寂静、閑寂の意。

 ちなみに、前の二語は茶事における主客相互の心得、後の二語は茶庭、茶室、茶器に関する心得をあらわしたものである。

 和の古字は「龢」で 、龠は多くの楽器を一時に奏するとき、緒声を和階するのに用いる三孔の笛のこと。禾は穀類、穀類のもっとも良いもの、稲のことである。そこで、龢は豊作を祝って、歌い踊る和楽、和合、調和のさまをあらわした文字といわれるが、古字はさて置き、禾(食べ物)が口のすぐ脇にあるそのすがたが和である。
 四年ほど前(平成3年)の米不足のときのことを思い起こせばわかるように、食べ物が身辺にないとお互いいらだつものだが、それが口の近くにあると、なにはともあれ安心で、なごやいだ気分になれる。したがって人間関係もスムーズに和合する。
 だから、聖徳太子は十七条憲法の第一条に、

「和を以って貴しとす」

と述べており、また『孟子』にも、

「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」

とある。けだし、和は社会生活の基盤であり、パワー発揮の根源である。

 お互い相和するには他を敬愛する心がなくてはならぬ、が、今日の日本人はあまりにも現実的即物的で、かつ自尊心が強く、敬うべきものを敬う敬虔の念を失っている。これが対人関係にもあらわれている。「みのるほど 頭のさがる稲穂かな」で謙虚に相手を敬う心があってこそ、相手からも敬愛されるのである。敬虔の念があればこそ、おこないを慎しみ、そこにおのずから、清廉、清潔の人格が形成されてくる。
日本人は昔からきれい好きで、清潔を愛した国民である。それは建物や造園にもよくあらわれており、また道徳感覚とも相通じている。道徳的に立派な人を人格高潔の士、清潔な人、清廉潔白の人といい、不道徳な人を汚い奴、汚れた奴といい、嫌っていた。
 残念ながらこのごろは、人の心の中にも、社会環境の面にもよごれが目立つ。清潔、清廉が望まれてならない。

 最近は、情報化社会、高速化社会といわれてすでに久しく、実に騒々しい。
 これにわざわいされて私どもの心もまた意馬心猿(いばしんえん:馬の奔走し、猿のさわぎたてて制し難いさま)のたとえのとおり、落ち着きがなく、とらわれが多い。この心を制し、寂静、閑寂の境に遊ぶゆとりが望まれる。

和敬清寂(わけいせいじゃく):宋に留学した大応国師が帰朝した際、将来した(持ち帰ること)劉元甫(りゅうげんぽ)の「茶道清規」を抄録して「茶道経」と名付けて刊行した。それによると茶禅儀の創始者は守端禅師で、その門下元甫長老が和敬清寂を茶道締門と定めて茶道会を組織した。これが和敬清寂の起源であるという。(「茶道辞典」より)

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