文字や言語はたいへん便利なものだが、案外不完全で不便な一面もある。たとえば右はどちらか、左はどちらか、これは文字や言語で教えられたものではなく、身体で悟っていることなのである。
試みに辞書を開いて「右」の項を見ると、「相対的な位置の一つ。東を向いた南の方。この辞書を開いて偶数ページのある側を言う・・・」とある。私どもはこんなややっこしい説明で、右や左を覚えたのではない。
右、左などは眼の助けもあってわかりやすいのだが、冷たいとか熱いという感じはどう説明されてるのだろう。辞書で「冷たい」を開いて見ると、「つめたし」とあり、「つめたし」を見ると、「ひややかに感ずる。ひややかである」とある。そこで「ひややか」の項を見ると「ひえているさま、つめたいさま」とあって、結局堂々めぐりである。
このように文字や言語ではわかりにくいが、または説明のつかないようなことでも、一度体験すればドンぴしゃりですぐわかる。ストーブに手を触れて熱い思いをした赤ちゃんは、二度とストーブに手を触れることはない。
だから禅では「冷暖自知」といい、物事は教えるよりは自ら悟らせることを主眼とし、修行者がどんなに願っても頼んでも、冷酷なまでに教えることを拒み、冷暖自知の迷路に追い込むのである。
これは何も禅に限ったことではない。
米長邦雄著『人間における勝負の研究』をみると、師匠が教えてくれなかったから強くなった。将棋の世界では師匠が「一局教えてやろう」というのは見込みがないから破門するということなのだ、というようなことが書いてある。
またアメリカの3M(スリーエム)社で、社内でよく使われる言葉に
“The captain bites his tongue until it bleeds”
(艦長は血の出るまで舌を噛む)というのがあるそうだ。
これは米国海軍で生まれた言葉だそうで、馴れない部下はへたくそでなかなか思うように舵が切れないので、艦長はつい口を出して教えたくなる。しかしここで教えたのでは部下のためにならない。ほんとに操舵法を身につけるには、失敗をしながら学んでゆくしかない。そう思って艦長は口をつぐんでジッとがまんしているという状態を言ったものだそうで、若い社員のミスやもたつきを、舌を噛んでジッとがまんして黙って見まもり、自ら体得することを気長に待つのが最良の社員教育だというのだそうである。
まさに冷暖自知、「証の得否は、修せんものおのづからしらんこと、用水の人の、冷暖をみづからわきまふるがごとし」(『正法眼蔵・弁道話』)という禅の教育と軌を一にするものである。
『論語』の開巻劈頭(へきとう)にも「学びて而して時に之を習う。亦説(よろこ)ばしからずや」とある。学んだことを自主的に自発的に反復して自分のものとし、それを生かすことによって人間は成長することができるのであって、そこが人間のよろこびだというのだが、今日は労せずして教えられ、手軽に与えられる。
これでは、真の創造はあり得ないし、したがって創造のよろこびも味わえない。
冷暖自知(れいだんじち):人間には頭というフィルターを通して分別し行動し、それ以前の大事な人間の生き方を忘れている場合が多い。それではならぬと教えるのが「冷暖自知」である。