佐藤俊明のちょっといい話

第19話 道は脚跟下に在り

道は脚跟下に在り  挿絵

 禅寺の玄関に入ると、よく「照顧脚下」または「看脚下」と書いた木札が掲げてある。「脚下を照顧せよ」「脚下を看よ」と読むのだが、これは本来的には自己を究明せよ、自己を見失ってはならぬという警告だが、玄関の場合は端的にいって履物をキチンとそろえて脱げ、ということである。
 どんなに忙しいときでも、履物をそろえて脱ぐぐらいの心のゆとりがほしいものだ。心にゆとりができると自分の姿が見えてくる。
「灯台もと暗し」で、人はとかく自分のことは見えないが、他人のことはよく見える。だから、他人の批判はできても自分の批判はできない。
 平和と福祉を強調しながら、平気で実力行使の夫婦げんかをしたり、身近な困窮者をふり向きもしない人がいる。
 理想を高く掲げるのもいいが、まず足もとをおろそかにしてはならない。他を論ずるよりさきに、自己を見つめなくてはならない。そのことを教えるのが「照顧脚下」であり、「看脚下」である。

 いまから九百年も前の人、中国は宋の時代、臨済宗中興の祖、五祖法演禅師(ごそほうえんぜんじ)がある晩、三人の高弟とともに寺に帰る途中、どうしたことか提灯の火が突然消えてしまった。
すると法演禅師、即座に三人の弟子の対し、

「この場に臨んで各自一句を述べてみよ」

と命じた。つまり、暗闇をゆくには灯火が何よりの頼り。その頼りの灯火が消えた。さあ、「どうするか?]というのである。師匠の命に応じ、三人三様の答を出したが、なかで克勤(こくごん)は、「看脚下」と答え、師匠を感服させた。
 暗闇に灯火を失ったような人生の悲劇に遭遇したとき、人は多く右往左往してこれを見失い、占いや苦しいときの神頼みに走り、あるいは悲劇のドン底に沈淪しがちなものだが、道は近きにあり、汝自身に向かって求めよと教えるのが、「看脚下!」の一語である。

 ある人が事業に失敗して自殺しようと思い、死場所を求めてさまよい、「宿賃も今夜限り、明日はどうしても死ななくては」と、せっぱ詰まって泊まった木賃宿の、襖の破れたところを隠すために貼られた紙切れに、

   裸にて 生れてきたに 何不足

と、書かれた小林一茶の句を見て、ハッとわれに返った。

「そうだ、裸一貫でやり直せばいいんだ」

と、急にファイトが湧いて、発奮して事業を再興して成功を収めた。この人こそ名薬“宝丹”本舗の初代守田宇治兵ヱその人だった。

 「看脚下」の一語を吐いた克勤は、やがて禅門の名著『碧巌録』の作者となるのだが、『碧巌録』第一則(章)に

「知らず、脚跟下に大光明を放つことを」

と述べており、また、道元禅師は

「仏道は人々の脚跟下にあり」

と説いている。
 道は、遠い彼方の深遠な哲理ではなく、生活するわれわれの脚跟下にあるのであり、まず脚下を見つめなくてはならない。
「看脚下!」

看脚下:「道は邇(ちか)きに在り、而(しか)るに諸(これ)を遠きに求む」(孟子)の愚を犯してはならぬ。道は足もとに在り。

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