佐藤俊明のちょっといい話

第20話 六根清浄どっこいしょ

六根清浄どっこいしょ  挿絵

 日本人は昔からきれい好きな、清潔を愛する国民で、その清潔感は道義感覚と表裏一体になっていた。
 品位の高い人を「人格高潔」「きれいな人」「清潔な人」といい、その反対の人を「不潔」「きたない」「よごれている奴」などといった。かつての政治家は井戸と塀しか残さないほど清廉だったが、今日は全く逆で不浄の金に汚れた人が少なくない。
 昔のひとは山登りの時など「六根清浄」(ろっこんしょうじょう)を口々に唱えた。
 六根とは、眼・耳・鼻・舌・身・意の働きのことで、眼は不浄を見ない、耳は不浄を聞かない、鼻は不浄を嗅がない、舌は不浄を味あわない、身は不浄に触れない、意(心)は不浄を思わない、つまり身も心も無垢清浄になろうという祈りの言葉が「六根清浄」であり、それが「六根浄」となり、「どっこいしょ」となった。
 祈りの言葉がかけ声にまでなった。それほどまでに身心の清浄を念願として生活してきたのである。

 さて、私たちは毎朝起きるとすぐに顔を洗う。この洗面は、汚れの有る無しにかかわらずおこなわれるもので、浄穢(じょうえ)を超えた実践なのである。いったい誰が、この意義深い洗面を教えたのか。それは道元禅師であり、『正法眼蔵』「洗面」の巻にその事が書かれている。
 道元禅師は、「修証不二」を説く。修は修行、証は悟りのことで、それが不二一体だというのである。
 常識的には修行が先、悟りは後で、修行の結果、得られるものが悟りなのだが、そうなると修行するものが、修行しながら悟りを待ち望むようになりかねない。禅では、修行と悟りを対立させてその間にいろいろの思慮分別をさしはさむことを「染汚」(ぜんな)といって、極度に嫌う。今日「汚染」という言葉が使われているが同義語である。修行は汚れのない行、不染汚の行でなくてはならぬ。修行の時は、求める心を投げ捨て、身も心も修行に打ち込む、それがそのまま悟りだというのである。
 ところで私たちはよく「××のために○○する」というが、この「××のために」というのがどうも曲者で、ここに染汚のタネが宿るのである。「国民のため」「会社のため」などとよくいわれるが、もしそういう美名に隠れて自分の個人的な願いや欲望を満たそうとする人があるとしたら、またそういう人は私どもの周囲によく見かけることなので、仰々しく「××のために」などという人のおこないには、染汚のタネが宿ってないか警戒を要する。
 不染汚の行とは、目的のために手段を弄するのではなく、手段即目的、つまり、ためにするもののない行ないをいうのである。したがって汚れのあるなしにかかわらず、毎朝洗面するということは実に不染汚の行であり、報酬や代償を求めない宗教的実践にほかならないのである。

   いまだ染汚せざれども澡浴し、すでに大清浄なるにも澡浴する法は、ひとり仏祖道のみ保任せり。(「洗面の巻」)

 患者の体に手を触れる医師は実によく手を洗う。肉体の病いと対処するのにあれだけの清浄消毒が必要なら、心の病いと対決するには、やはり同じように清浄消毒が必要である。
 毎朝の洗面はもとより、六根を洗い洗って清浄ならしめなくてはなるまい。

洗心:寺や神社の御手洗の水盤によく「洗心」の2文字が彫り込まれている。これは「ここで口を漱ぎ手を洗うのは、単に身を清めるだけでなく心の穢れを洗い清めることこそ大切なのだ」という意である。

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