佐藤俊明のちょっといい話

第21話 挨拶

挨拶  挿絵

 挨拶には不思議な力がある。
 全然未知の間柄にも、言葉の通じない相手にも、ひとことの挨拶は、その心を開かせる力を持っている。
 海外に出かけた時など、まず旅先の国の挨拶の言葉を覚え、片言交じりの挨拶をすると、いかめしい顔をした人もにっこり顔をほころばせて、挨拶してくれる。
 旧知の間では、さわやかなひとことの挨拶によって、昨日の感情のしこりが解けるだけでなく、こうした場合、先に挨拶したほうが勝ちで、挨拶された側は挨拶の遅れたことにうしろめたさを感じ、相手を自分よりもひとまわり大きな人物のように感じることは、どなたにも経験のあることと思う。

 このように不思議な力を持っている「挨拶」なのに、日本人はどうも挨拶がへたである。
 どうしたわけだろう。

 遊牧民族は、水や牧草を求めて家畜とともに移動し、幾日も幾日も人に会うことがない。それだけに親しい友に会ったときは、握手し、抱きつき、キッスして、出会いのよろこびを全身で表現する。こうした習慣を永年にわたって積み上げてきた西洋人であれば、挨拶が上手になるのは当然のことである。
 これに比べ、朝から晩まで、昨日も今日も明後日も、顔をつき合わせている農耕社会に育ってきた日本人には、人に会うことの感激がない。感激がないので、挨拶の仕方も上達せず、その結果はたいへん損をしている。
 ひとことの挨拶により、その人が、その家族が、その企業が、大きくいえばその国が、それなりの評価を受けるのである。挨拶のへたな日本人であればあるほど、挨拶には充分意を用いたいものである。

 ところで、この「挨拶」、実は禅語である。
 “挨”は積極的に迫って行くこと、“拶”は切り込んでゆくことである。修行者が師家(指導者)に問題を持ちかけて答えを求め、または、師家が、あるいはお互い同志が、問答を交してその力量を計ることで、挨拶は禅家の真剣勝負である。
 さて、禅家の挨拶といっても、挨拶である以上、何も特別なものではない。
 私どもの日常生活における場合と同じく、身近な事象をとらえておこなわれる場合が少なくない。
 極端にいえば、「おはよう」「こんにちは」の一言で、相手の心の琴線に触れるのである。
 そのような心のこもった挨拶ができるよう、精進したいものである。

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