佐藤俊明のちょっといい話

第22話 とらわれない心

とらわれない心  挿絵

 クルマの運転をなさるかたなら、どなたにも思い当ることだろうが、自動車学校に通いはじめた頃は、両手両足のそれぞれ違った動作がなかなか思うに任せない。
 これはなぜかというと、心が一つ一つの動作にとらわれ、意識の切り換えが遅れるからである。
 それが練習を積み重ねると、何等意を用いずして自由自在に動かすことができるようになる。これを「応無所住而生其心」(応に住まる処無くして其心を生ず)というのである。
 「住まる処が無い」というのは、心が一ヶ所、一つの事に停滞しないこと、執着しないこと、こだわらないことであり、そこにこそ「其心を生ず」無碍自在の心の働きがあらわれるという意味である。
 「応無所住」の運転ができるようになって、免許を取得して、路上にでたとする。ハンドルを握っていると、道路情報が前方からどんどん手前に迫って来てクルマの後ろに流れてゆく。「応無所住」で流れるままに流しておけば、「而生其心」で快適なドライブを楽しむことができるのだが、街角に立っているきれいな別嬪を見て妄想を逞しくしたりすると、途端に「応無所住」でなくなるので、「其心が生じ」なくなり、三年間無事故の優良ドライバーも、傍見運転で事故を起こしてしまう。

 神通力を得た久米の仙人が天上界を飛翔中、ふと下界を見ると、若い乙女が小川のほとりで洗濯していた。裾をまくり上げ、白脛をあらわにしたなまめかしい姿を見て、欲心を起こしたばかりに墜落したという話がある。
 神通力を得た仙人でも失敗するのだから、私どもはとらわれのない生活を心がけるべきである。

 千手観音は詳しくは千手千眼観世音菩薩といって、掌に眼のついた千本の手を自由自在に駆使して一切衆生を救う仏さまだが、一本の手のはたらきに心をとどめれば、九百九十九本の手は役に立たなくなってしまう。千本のどの手にも心をとどめないからこそ、無碍自在の働きができるのである。
 八面六臂の大活躍をやりとげる人はまさに応無所住而生其心の千手観音である。

 写真を撮る場合、シャッターを押したらフイルムが巻き上がる。そうしないと二重写しになる(昔のカメラにはそういう装置がなかったので、よく失敗したのだ)。
 私どもは、五感の窓を通していろんなものを心のフイルムに写す。すぐに心のフイルムを巻き上げないと二重写しとなり、心はモヤモヤする。そういう失敗が多い。
 どうして、すぐ心のフイルムを巻き上げないのか。それはとらわれ、こだわりがあるからである。

 クルマの運転にはそれ相応の練習が必要である。同様に心のとらわれをなくするには、それ相応の修練が必要である。

 このごろ「こだわり」はよい意味に使われているが、本来はそうではなかった。

応無所住而生其心(おおむしょじゅうにしょうごしん):「金剛経」にある言葉。応(まさ)に住(とど)まる処なくして其心(ごしん)生ずると読む
捉われることのないところに無碍(むげ)自在の心の働きがあらわれるという意味である。

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