佐藤俊明のちょっといい話

第23話 金的を射落とす力

金的を射落とす力  挿絵

 現在地に移って来るまで、私は長いこと山形県の米どころ庄内平野にいた。
 そんなわけで、時に農業関係の話を聞く機会があった。

   下農は草をつくり、
   中農は稲をつくり、
   上農は田をつくる、
   上上農は心をつくる

といわれる。心田を耕すことを教えるのが禅であれば、農もまた禅に通ずるものがあり、興味深いものもあった。中でも印象に残ったことにこんなのがあった。

 茨城県新利根農協の組合長上野満さんは、戦後外地から引き揚げて来て、はじめは胸のあたりまでぬかる泥田に稲を植えて、三十万円の収益を得た。
 翌年、もっと収益高をあげようと暗きょ排水工事をやった。しかし収益はのびなかった。
 そこで第三年目、裏作に牧草を植えたが収益は相変わらず三十万円台だった。原因は牧草の刈り取りが遅れて田植えが遅れたための減収だった。
 第四年目、牧草の刈取機を導入したので田植えは適期に出来たし、今年こそはと期待したが収益に変化はなかった。せっかくの牧草を腐らせてしまったからである。
 そこで五年目にサイロを造ったが、飼料を消化する牛の頭数が不足で、これまた三十万円台止まりだった。
 第六年目、乳牛五頭を入れたところ、みのりの秋には一挙に百万円の実収を得たという。

 これは考えさせられる話である。三十万円から百万円に至る道は、だんだら坂ではなく絶壁だった。一歩一歩よじ登るが、三十万円台の絶壁はいつ果てるとも知れない険しさであり、高さであった。ところが六年かかってこの絶壁を登りつめた途端、急に視界が開け、足は百万円台の頂きをしっかりふまえていたというわけだ。

 努力に比例して成果があがれば問題は簡単だが、努力しても努力しても成果があがらない。上がらないその時点でやめてしまえば骨折り損のくたびれもうけで終わってしまうしかない。そうではなく、一見ムダと思えることでも努力を続けてゆくと、そのムダが全部生きて予想外の成果をあげることができるようになる。

菩提心をおこし、仏道修行におもむくのちよりは、難行をねんごろにおこなふといき、おこなふといへども百行に一当なし。しかあれども或は知識に従い、或は経巻にしたがいて、やうやくあたることをうるなり。いまの一当は、むかしの百不当の力なり、むかしの百不当の一老なり。聞教・修道・得証、みなかくのごとし。(『正法眼蔵』説心説性の巻)

という言葉がある。弓で的を射るが、いっこうに当たらない(百不当)。しかしその当らない矢を何本も何本も放って修練に修練を積むと、その修練の力によってやがて当たるようになる。その金的を射落とした一当は、それまでの百不当の力であり、百不当の一老(蓄積)である。それと同じで、どんなに努力しても、はじめのうちは百行に一当なしで、さっぱり心にかなうところがない。しかし先達に導かれ、書籍に親しんで実践を積上げると、それまでの百不当の力より、百不当の一老によって一当を得るにいたるのである。

 「失敗は成功のもと」というが、けだし成功の一当は失敗という百不当の一老によるものである。五年間努力しても成果があがらなかったが、六年目に一挙に三倍の収益となった。これが百不当の力、百不当の一老である。

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