佐藤俊明のちょっといい話

第24話 こころの鍵

こころの鍵  挿絵

 知り合いの若奥さんがやって来て、開口一番、
「昨晩はサンタンたるものでした」
という。
「どうしたの?」
と訳を訊ねると、カギをなくしてわが家に入れず、主人の帰りを待ったのだが、終電でも帰って来ない。“どうしたんだろう”と思った途端、“あっ、そうだった。今日は東京出張だったんだから、姉さんの処かも知れない”と気付き、さっそく電話すると、案の定、
「今日、こちらへ泊まるよ。さっきから何度も電話してたんだが、どこへいってたの」
とやや不機嫌な声。
「カギをなくして、家に入れないの」
と泣きごとも言えず、さりげなく電話を切ってクルマに戻ってみたものの、若い女の身空、クルマの中で寝るわけにもいかず、そうだ、走っておれば安全とばかり、一晩中街をドライブし、朝になってお隣の協力を得てベランダからわが家に侵入、ホッと生き返った気持ちになったというのだった。
 カギがないと、たとえわが家であっても入ることができない。わが家に入れなければ周囲をうろつくよりほかない。まさにサンタンたるものである。

『無門関』第十二則(章)に、

 瑞巌彦(すいがんげん)和尚、毎日自ら主人公と喚び、復(また)自ら応諾す。乃ち云く、惺惺着(せいせいじゃく)や、諾(だく)。他時異日、人の瞞を受くること莫(なか)れ、諾(だく)、々(だく)。

という話が載っている。
 瑞巌彦和尚とは、台州(浙江省)丹丘の瑞巌寺に住していた師彦和尚のことである。伝記はつまびらかでなく、生没も不祥となっているが、850〜910年と推定されている。
 師彦和尚は、毎日毎日、自分自身に向かって「主人公!」と呼びかけ、自ら「ハーイ」と返事をし、「よし、よし、眼をさましているか。ボンヤリするでないぞ」といい、「ハイ」と答え、「これからも人にだまされるでないぞ。世間の毀誉褒貶、名利や人情などにくらまされないよう気をつけろ」といい、自ら「ハイ」と答えていた、というのである。

 呼びかける自分は日常の自己であり、答える自分は本来の自己、真実の自己である。
 私どもにとって大切なのは本来の自己、主人公である。ところがある政党が本来の自己を忘れて、権勢欲に秋波を送った途端に議席を半減したように、主人公を忘れ、見失っているのが私どもの現実の姿である。
 師彦和尚は、自ら主人公になりきって「主人公!」と喚び、自ら主人公になりきって「ハイ」と返事をしている。喚ぶも主人公、答えるも主人公、徹底主人公になりきっている。本来の自己と日常の自己、この二つの自己が、離れず、不二一体、一如となってこそ、自分が自分になりきることができる。
 私たちの心は、本来の自己を主人公とするわが家である。日常の自己がわが家の主人公と対面し、不二一体、一如となるには、まずわが家のドアを開くカギが必要である。師彦和尚は、いわばわが家の奥座敷のカギを使って、いつも主人公と対面していたのである。
 内なる本来の自己を見失わないよう、心のカギはしっかり身につけておかねばならない。

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