佐藤俊明のちょっといい話

第29話 相続也大難

相続也大難  挿絵

 「翔んでる」という言葉が使われて久しい。
 人間が左右の足を交互に出して一歩一歩前進するのに、大空を自由自在に羽搏く鳥は人間の及ばない能力を持っている。
 同様に、恵まれた才能をフルに発揮して自由闊達な活動を続ける人は鳥のように羨ましい存在である。しかし「翔んでるひと」などと周囲にさわがれたばかりに自らの能力を過信し、能力を超えて飛びまわり、生命力を分散し、結局は虻蜂とらずの一生で終わってしまう人も少なくあるまい。
 逆に、たとえ才能には恵まれてなくとも、自らの能力に応じた守備範囲を堅く守って生命力を集中し、蓄積して大きく自己啓発の実を挙げている人も少なくない。
 歴史上にその名をとどめているような偉大な仕事を成し遂げた人は、みな一様に一筋の道に精進している。

 禅に「相続也大難(そうぞくやだいなん)」という言葉がある。実践を相続し、継続することは至難なことであるというのである。
 よく使われる言葉にも、「石の上にも三年」という。これは、三年という歳月は実践力の強さ、相続の度合いを測る最小の目安で、三年続かないようでは話にならず、実践はそれ以上の相続によって実を結ぶ、というのである。
 だから昔からよく「根気」が強調されている。
 根気とは、いわば一日を単位として、同じことを同じように繰り返してゆくことである。私どもは日に三度食事をとるが、考えてみれば根気のいいことである。今日は忙しいから、めし食うのやめよう。そのかわり、明日二食分食べようとしても、それはできない。
 それだけではない。朝のご飯は朝の時、昼のご飯は昼の時、晩のご飯は晩の時、朝昼晩、日に三度も食事を規則正しく毎日繰り返してこそ、健康が保たれるのである。これが事実なら、知能の啓発も技術の向上もみな同じことである。

 道元禅師は「一事をこととせざれば一智に達することなし」という。
 実践の集中と蓄積こそ、一智、つまり自分も納得し、他人も認めるゴールに到達できる唯一の道だというのである。
 では、そのような非凡なゴールに到達できる道程は、というと、「この道三十年」といわれるように概ね三十年というのが一般に共通していわれるところである。禅では、「さらに三十年行脚しきたれ」とか「さらに参ずること三十年にしてはじめて得てん」というように修行者を策励する。
 また、宮本武蔵は「鍛練」という言葉を注釈して「鍛は千日の稽古、練は万日の稽古」という。万日といえばおよそ三十年である。武蔵は一生の間一度も試合に負けたことがなかったというが、それは天賦の才能もさることながら、三十年の間、根気よく修練に修練を重ねた不断の精進によってもたらされた非凡の結果である。

 ところが、私どもの周囲には、「私はこの仕事にたずさわって数年になります。だからもう新鮮味がなくって・・・」などという人があるが、これはとんでもないことで、一念万年、万年一念、エネルギーの集中と蓄積の一筋の道を歩み続けてこそ、日に新たに、日に日に新たなる創造力となるのである。

一念萬年:一念即ち万年、万年即ち一念という意味で、長い短いなどという相対を離れた絶対を表す言葉。一念が万年を包む。あるいは万年という長時間も一念におさまるという意。

前の法話
佐藤俊明のちょっといい話 法話一覧に戻る
法話図書館トップに戻る