佐藤俊明のちょっといい話

第32話 茶に逢うては茶を喫し 飯に逢うては飯を喫す

茶に逢うては茶を喫し 飯に逢うては飯を喫す  挿絵

 平常心とは、読んで字のとおり、「平生あるがままの心」のことだが、さればといってわがまま勝手な日常の心のことではない。

 飛行機に乗って雲の上に出ると、下界は雨でも上空はからりと晴れた青空である。同様に、私どもの日常はモヤモヤした分別妄想やドロドロした欲望の雲に覆われているが、そこを突き抜けるとまことに清清しく爽やかな心である。その心がそのまま日常生活に活かされ、一挙手一投足が仏の道にかなう。これを「平常心是れ道」というのである。

 曹洞宗大本山総持寺を開かれた瑩山禅師が二十七歳のとき、師匠の義介禅師(永平寺三祖)から平常心の意義を問われたとき、
「黒漆の崑崙・夜裏に走る」
(こくしつのこんろん・やりにわしる:真黒な玉が暗闇を走る)
と答えた。そのように見分けがつかない、つまり思量分別を超えた境地であると答えた。
 しかし、義介禅師は、
「不充分、さらに一句を言え」
と迫った。すると瑩山和尚、
「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯に喫す」
と答え、この語によって印可(悟りの証明)を受けられた。
 これでわかるように、思量分別を超えた清清しく爽やかな境地がそのまま日常生活に活かされ、一挙手一挙投足がすべて仏道にかなってこそ、平常心是れ道なのである。そのすがたはお茶をいただく時は余念雑念を交えず、喫茶三昧に徹し、食事の時は食事の一行三昧になりきることである。
 なんでそんな堅苦しいことが必要なのか。雑談しながらお茶を飲んでもいいじゃないか、テレビを見ながらめしを食ってもいいじゃないか、と言われるかもしれないが、こんな話もある。

 昔、東海道を行く一人の禅僧が、富士山の見えるところでは笠で富士山をさえぎって通ったという。理由をたずねると、
「自分はいま仏さまのご用で道中しているので、いまここで漫然と富士を見たんでは仏さまに相済まぬ。また富士に対しても相済まぬ」
と答えたという。

 二途にわたらず、“いま” “ここ”の一事に全力投球してこそ、間違いなく、しかも無碍自在の真の自由が得られるのである。
 東といえば西、上といえば下、好き嫌い、利害得失等々、私どもはすべてを相対的に見て、好きなもの、都合のよいものは引き寄せ、嫌いなもの、不都合なものは遠ざけようとする。こうした相対分別、取捨選択がはたらく限り、平常心は現成しない。

春、百花あり。秋、月あり。夏、涼風あり。冬、雪あり。もし閑事の心頭に挂ることなくんば、すなわち是れ人間の好時節。

 春は百花爛漫として咲きほころび、秋は月が美しい。夏は涼しい風が吹き、冬は清清しく雪が降る。つまらぬこと(閑事)にあれこれ思い煩うことがなかったら、春夏秋冬、いつでも人間にとって好時節である。
 春夏秋冬、それぞれ趣があってまことに結構な四季の移り変わりであるが、それなのに嘆き、悲しみ、瞋り、悩むのは一体どうしたわけか。それは余計な分別、いらざるはからいが心の中にモヤモヤしているからである。
 これさえなければ、春夏秋冬、いつでも好時節であるという意であり、これは『無門関』(無門慧開著)第十九則「平常是道」の結びの偈(詩)である。

心に捉われがなければ、四季折々すべてこれ好時節

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