佐藤俊明のちょっといい話

第33話 去年とや言はむ 今年とや言はむ

去年とや言はむ 今年とや言はむ  挿絵

 去年(1995年のこと)は中秋の名月が二度眺められた。八月に閨八月が続いたためであり、一年、十三ヵ月となったので、今年の旧の元日は大幅に遅れて二月十九日となった。立春は二月五日なので、旧年中に春を迎えるというわけである。
 日本最初の勅撰和歌集『古今集』の最初に、

年内に 春は来(き)にけり ひととせを
 去年(こぞ)とや言はむ 今年とや言はむ

 という歌があるが、まさにこの歌のとおりの年回りで、「去年とや言はむ今年とや言はむ」と、戸惑いの気持をあらわしながらも新年を迎える歓びをかみしめている当時、千百年も前の人々の姿が仄(ほの)見えてくる。
 「去年とや言はむ 今年とや言はむ」・・・一体、どちらがどうなのか、の迷い、どうも今年は問題提起の年のような気がしないでもない。本誌(※)の読者、保険業務に携わっておられる代理店の皆さんにとっても、本年は大きな節目の年と聞く。従来、明確に仕切られていた二つの流れの合流、そして複合に少なからず戸惑いもあるのではなかろうか。まさに「生保とやいわん、損保とやいわん」であろうか。

 さて、新年というと、私の子供の頃はたいへん新鮮な、そして誰しもが同時に一つ歳をとる成長の節目として意義深いものだった。たのしみの一つとしての室内遊びとしては精々カルタ取りと双六くらいのものだったが、子供の数の多い時代だったので、家庭内でけっこう楽しめたし、ほかに遊具とてなかったので、カルタなどは連日のおたのしみで、おかげでその内容は、いつかしらみな暗記してしまったものだ。子供向けの内容ではなかったが、今にして思えば、カルタの文言には感服させられるものが少なくない。
 たとえばいの一番は「犬も歩けば棒にあたる」これなどはなかなか含蓄がある。この句の眼目は「も」の一字にある。「猫が歩けば棒にあたる。だから犬も歩けば・・・」なのか、それとも「猿が歩けば・・・」といいたいのか、「も」の起きてくる前提が書かれてない。ここがおもしろいところで、犬も歩けば棒にあたるんだから、人も歩けば棒にあたるじゃないか。と、いずれにしても歩かなければ、棒にはめぐり合わない。しかもそのことを犬のことではなく、人間自体の問題としてそれは考えさせてしまうのである。
 いまひとつこの句の重要な点は、「棒にあたる」で打切っているところである。棒にあたって痛いのか痛くないのか。損なのか得なのか。知りたいのはその点だが、これは条件次第で断定できないから書かない。棒にあたって痛い場合もあれば、くすぐったい場合もあろう。痛みに苦しみを感ずる場合もあれば、快感を覚える場合もある。それはその時その時の条件と、その人、その人の受け止め方によって違ってくる。だからそれは明言しない。

 昔、山里の田舎に住む二人の農夫、江戸に出て一旗揚げようと連れ立って村をあとにした。途中、峠の茶屋で江戸の事情に詳しい人に出会い、いろんな江戸の情報の中に「江戸では水も売ってますヨ」という話を聞き、一人は「水も買わねばならんようでは俺にはとても生活できそうもない」と、村に引返して貧しいもとの生活に戻った。が、いま一人は、「水を売っても商売できるか。それならこの俺にもできる」と、勇躍江戸に出て財を成したという。同じ棒にあたって、それぞれ別の道を選んだ二人の生活は遠く離れてしまった。
 社会の進展、変化の激しく急速な今日、「去年とやいわん、今年とやいわん」と躊躇は許されまい。古今集に詠じられている当時の人々と同様、戸惑いながらも、いつもと異なる変化と感激をもってすなおに受け容れることが肝要。しかも、"犬も歩けば棒にあたる"である。まずはやってみることから始まり、成り行きも自分自身の受け止め方一つ、やり方次第なのである。"よし、やるぞ!"とばかりに、まどうことなくスタートラインにつくことこそ、輝かしいゴールに至る捷径(はやみち)であろう。

円通無礙(えんづうむげ):一切のものに遍く行き渡って、円転滑脱、自由自在にはたらく

※本誌…住友海上火災保険株式会社が発行している「代理店通信」のこと。
「佐藤俊明のちょっといい話」は代理店通信で連載している佐藤先生の法話をそのまま掲載しています。

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