佐藤俊明のちょっといい話

第51話 「修行」と「修業」

「修行」と「修業」 挿絵

 文章を書くとき、私は必ず「修行」とかいているのだが、漢字になったものをみると「修業」にあらためられていることが一度や二度ではない。
 編集者が用語の慣例に従って親切に訂正してくれるのだろうが、実は有難迷惑なことである。
 なぜなら「修行」と「修業」では肝心の意味が違うからである。
「修業」とは一定の業を修めることで、基準に達すれば「卒業」となり資格がつくのだが、「修行」には「卒行」がない。終わりのない行を修めるのが修行である。

 終わりのない行とはなにか。
 それは仏祖の践み行われた大道のことであり、それを修め護持するのが修行である。
 換言すれば「修業」とは自分のため、自分の利益のために業を習いおさめるもの。「修行」はなにも求めず、利害損失を離れて、昔の悟りを開いた人々の道と行ずることである。

 唐の時代、馬祖道一(ばそどういつ)が座禅修行に励んでいるところへ師匠の南獄懐譲(なんがくえじょう)がやってきて
「感心に座禅をしているが、それは何のためだ?」
と訊ねた。
「仏になるため」
 つまり悟りを開くためですと馬祖が答えると、南獄は瓦を持ってきて、石にあててこすりはじめた。馬祖が
「何をなさるんですか」と訊ねると、南獄は「磨いて鏡にするんだ」という。
「瓦を磨いても鏡にはならんでしょう」
と馬祖がいうと、南獄は
「座禅をしてどうして仏になれるのか」
といって、座禅を悟りの手段と考えることを戒めた。
 座禅をしながら悟りを待ち望む思いがあってはならぬ。修行はそれを利するための手段であってはならぬというのである。

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