菅野秀浩のちょっといい話

第49話 「安楽死」を是認するのかⅢ

「安楽死」を是認するのかⅢ 挿絵

 拙稿の第3話「二者択一」でも述べたが、命を左右する大事の決定は、「右か左」「良いか悪い」「認める・認めない」「是か否」の二つの選択肢からは、答えは選べない。

 だから、自分以外の他の人に対し、こちらを選択するべきだとの示唆や積極的なアドバイスも、要らぬお世話と言える。

 ましてや、宗教家や医師のように、いのちの根幹に直接携わる職域にある者は、「生」へのさまざまな教えや励ましや叱声は為すべき重要な仕事といえるが、「死」へのかかわりに対して、消極的・積極的をとわず、他者への働きかけや行使は無用で、むしろ虚言や邪道というべき行為だと思っている。

 具体的に言えば、「脳死」や「臓器移植」に直面した患者や家族から、その意志決定を求められとき、釈尊の例え話(仏教説話)を以て、経典にはこう説かれているから、こうすべきであるとか、或いはこうすべきで無いと、積極的にしろ、消極的にしろ、自分自身の未熟な価値観で判断して二者択一して示唆した場合、宗教者の奢りへの疑問は残る。

 却って謙虚に「解らない」とし、「命」の決定には、多くの選択肢から、個人の意思決定を尊重するように、教え諭す必要がある。

 多者から択一するのは、個人の意志であり、結果は正しい選択肢なのである。

 Y氏は医師であり、職域は治療にあった。患者が望んでも、治療を放棄し、困惑し、自らが積極的な死を選択してはならない。

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