菅野秀浩のちょっといい話

第60話 成仏への道Ⅱ

成仏への道Ⅱ 挿絵

 私たちは、全く自覚は無いが、本来誰でも仏に成る資質というか、まだ磨かれない原石と云えばよいか、仏の核或いは種子が備わっていて、凡夫であるために気が付かずにいるだけである。だから自覚さえすれば、成仏することは可能である。このような考え方を、「如来思想」とか「本覚思想」という。

 この考え方は、身を収め戒律を守りとおし、いつ至るとも知れない、菩薩道への長く険しい道を、釈尊への憧憬と成仏への無心な修行を修めて、始めて実現が可能に成るという気の遠くなるような過程とは違い、自分が仏であることを自覚し、目覚めれば成仏が叶うという、きわめて時間的にも短縮された、誰でもが平等に成仏を得る機会があるという身近なものへと発祥した。

 更に密教は、早さは瞬時というべき程に究極され、その身そのままが菩薩であり、発心すれば「速疾」に菩提を得て即身に成仏するというのである。即ち本尊大日如来は、遠くの彼方に存在するものではなく、貴方自身が大日如来なのだと説くからで、全ての存在は大宇宙の中の小宇宙のごとく、全てが大日如来に融合し包括される。そのこと即ち成仏だと説くのが密教である。

 然れば、密教は善人だろうが悪人だろうが、平等に菩提を得るのだろうか?否である。

 密教の扉を開く鍵は、その「身・口・意」が如何に研ぎ澄まされ『密』と成りえたか、そこにこそ「速疾」があるのである。

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