菅野秀浩のちょっといい話

第64話 成仏への道Ⅵ

成仏への道Ⅵ 挿絵

 真言密教における成仏は、「速疾」にあると再三述べたが、大乗仏教においては密教以外の諸教も本来仏の資質を内在している「本覚思想」に立脚するので、同じように速やかに成仏に至るはずであるが、至らないのは、何故なのだろうか。

 実は今一度確認すれば、真言密教では、大日如来は全ての存在を宇宙的宏大さで包み込み、凡夫である我々もそのまま(煩悩を抱えたまま)の姿で同一体となり、まさしく大日如来の姿を変えた存在(法身=ほっしん)であると説くのである。即ち、この身は大日如来であり、他の何者でも無いと確認できたとき、その刹那に成仏するのである。

 ところが密教以外の諸教においては、本来内在する菩薩が大願をおこし、気の遠くなる修行と時間の果てに成就し、その報いとして成仏(報身=ほうじん)したり、衆生を救済するには、その求めというか状況に対応するため、成仏の過程でその者の内在する機根(きこん=能力や性質)に応じて様々な姿に身を変えて示現(応身=おうじん)して成仏するのである。このため煩悩を滅却した極めて高い透明な境地と、長い修行の積み重ねの様々な過程求めれられ、結果で成仏に至るため、時間的には速疾は無いのである。

 ましてや、凡夫では菩薩と同じ修行や時間を経ても、成仏に至る保証もない。

 ここに真言密教の法身大日如来という「速疾」する仏陀観の、偉大さと特質がある。

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