菅野秀浩のちょっといい話

第80話 密教の仏8 観音菩薩Ⅱ

密教の仏8 観音菩薩Ⅱ 挿絵

 観世音菩薩は、百ヶ日忌の本尊である。

 百ヶ日忌は、卒哭忌(そっこくき)といわれ、涙の乾く日という意味で、故人への想いや嘆きや慟哭も、重ねる日々が癒してくれて、胸の内に深く沈んでいくからであろう。

 何故百日目に修すのかは、解らない。

 多分神道の百日祭祀か、百観音の由来からと想像するが、一心の南無観世音菩薩の唱名は、数え切れない妙智力の救いを得る。

 この祈願への救いの多さを百に譬(たと)え、仏界へ旅立つ精霊の百日を越える節の日とを、重ね合わせたのではないかとも思える。

 「みる」という漢字には、「見=人と目の合字で、みる事が転じて<あらわれる>や<会う>という義」や、「看=手と目で、手をかざして遠くを<みる>や、額に手をあてて熱を<はかる>」などがあるが、観音様の「観・觀」は、諦視即ち「明らかに良く視る」「つまびらかに見る」の事で、目の前や近隣、遠くても自眼で見える範囲という狭義では無く、世の全てを見通す、内面をも透視してしまうほどの観察力をいうのであって、「世の中を自在に」「世の音(救いを求める声)を聞き漏らす事なく」知見するのである。

 衆生の生業とする全ての姿に応じて変身して現身し、様々な願いや懇請にも即時対応できる、民衆救済に徹した仏といえる。

 又、仏には性別は問わないが、容姿から「慈母」と慕われ、母胎に包まれる安心が、成仏へ導く大らかな慈愛を育むのである。

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