菅野秀浩のちょっといい話

第86話 密教の仏11 阿閦(アシュク)如来Ⅱ

密教の仏11 阿閦(アシュク)如来Ⅱ 挿絵

 仏教においては、何人も極楽へ往生することを願うわけであるが、既に三回忌には阿弥陀仏のもとへ赴き、大願を果たしているのに、何故七回忌を迎え、さらに追善を重ねるのか、疑問を持つ方も多いと思う。

 実は、釈尊を本仏として成仏を願う、同質の仏教を信仰する上で、頂上は同じでも、そこへ至る登山口(宗派)が違うと、自ずから修行の過程も違い、殊に日本仏教ではその宗派の発生の時代性により、仏陀観や本尊観も変化し、華竟浄土(成仏)思想も異なる。

 先述のごとく浄土思想は、平安末から鎌倉時代に台頭したもので、只阿弥陀一仏を持って願いを達成する為に、追善というより、いつの日も阿弥陀仏と共に極楽に在り、その本願を得て、成仏に至るのを待つのである。

 しかし、真言密教では、弥陀の浄土は別徳の少しく止まる世界であり、ちょうど末広がりの螺旋階段を登るように、段々高く段々広く、更なる成仏を求めなければならない。

 そこで精霊は、恒に厳しく戒を律して、怒り(瞋恚)を断ち、煩悩(淫欲)に溺れない阿閦如来に従って、智慧の鏡を磨き、心を堅固に修行を積み、無上菩提を求めるのである。

 宮坂宥洪師は、七回忌は丁度六才(満六年)の就学年齢、仏の世界も同じで、大日小学校に入学して担任の阿閦先生について、智慧の学習を始める日と説教されたが、筆者もこの考えを支持している。

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