菅野秀浩のちょっといい話

第98話 現代葬儀事情Ⅴ

現代葬儀事情Ⅴ 挿絵

 科学や文明の発達は、生活や習慣をより良く変えたが、時には残酷な様も呈する。

 臨終の有り様もそうで、死の瞬間は肉親や親族の励ましと慟哭の看取り場であったが、蘇生を重視する現代医学では、最後まで治療を施し、馬乗りになる人工呼吸や切開しての心臓マッサージなど、到底肉親には正視できない、別れが出現するに至った。

 当然、死の瞬間(握る手の温もりの変化を感じつつ)の別れも無く、無残な物言わぬ遺体との対面は、死の確認の場となった。

 仏教は死して尚、霊魂と肉体は一体とする立場で、臨終は生死観(しょうじかん)を確認する重要な場で、生命体と死体(物体)の別れ(物心二分)の場という、科学や医学の死とは根本的に論を異とする。

 この臨終時の変化が、死の概念を根底から覆し、葬儀の仏教的意義を崩壊させ、ただの事務的な「別れ」を生んだと言える。

 更に再言及すれば、葬祭業者は営利が目的で、仏教の教義は必要としない。

 「葬儀」なんて言い方は坊さんだけで、葬儀屋さんもとっくに姿を消してしまった。

 代わりに葬祭式典業が起業され、「メモリアル」式の、セレモニー(式典)を流行させ、昨今の「友人葬」「偲ぶ会」「お別れ会」を企画し、一方文化人と称する発信者が、これまた業者と組んで「自然葬」「散骨」「樹木葬」など、人間関係を否定する、寒々しい無宗教(?)式を演出し、儲かる葬儀の現代事情は止まることを知らない。

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