長谷川正徳のちょっといい話

第7話 ありがたきかな、この命

ありがたきかな、この命 挿絵

 昔の道話(人間の生きる道を教える話)の中に、“栗の食べ方”というのがある。

 ここに十個の栗がある。
この栗をおいしく食べるには、最初に一番おいしそうな栗を食べる。
次に九個のうちで一番おいしそうな栗を食べる。
次に八個のうち、七個のうち、六個のうちと順次、残った中で一番おいしそうな栗を食べて、最後に残りの一番おいしい栗を食べ終わる。
こうすると、全部の栗をことごとくおいしく食べたことになるわけである。

 これとは逆に、最初に十個のうちで一番まずそうな栗を食べる。
次に九個のうちで一番まずそうな栗を食べる。
かくて順次にまずい栗を食べて、最後のまずい栗を食べ終わったとき、全部の栗をまずく食べたことになるのである。

 このように一つの栗の食べ方でも、おいしく食べる方法と、まずく食べる方法とがあるが、われわれの日常生活においても、これに類するものがある。

 このかけがいのない一生を明るく愉快に送ることも、暗く不愉快な一生にしてしまうのも、われわれの心の持ち方いかんによってきまるものである。
いつも有り難いと感謝の心で生活できるひとは、十個の栗を全部おいしく食べたのと同じように、人生をいつも楽しく明るく送ることの出来る人々である。

 こういう人生の処し方を便宜主義とか気休め主義とかいう説もあるが、決してそうではない。

 日蓮聖人は、

「過ぎし存命(そんみょう:いのちのこと)不思議と思わせたまえ」

と仰せられているが、死を背負った"生"を今日も過ごせたことは、"不思議にも有り難いきわみ"なのである。

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