佐藤俊明のちょっといい話

第36話 「供える」「食べる」

「供える」「食べる」  挿絵

 10歳で夭折した坊やの四十九日の法事があって、お斎の席に着いた時、床の間に安置された位牌と写真を見て、“坊や、私たちだけ頂戴して済まんなァ”という気になり、ジュースをコップに移してお供えした。するとしばらくして末席にいた亡き坊やの兄が自分の食べ物を半分わけて盛りつけたお皿を持って来てお位牌の前にお供えした。
 それを見て私はやさしい心根に打たれ、ほのぼのとしたものを感じ、失われた宝が手許に戻ったような気がして嬉しかった。というのは、いつか新聞にこんな記事が載っていたからである。

それは──息子が学校からテストの答案を持ってきた。見ると、「お月見…だんご…???」という問題で、息子の答えは「供える」だったが採点はバツだった。
「正解は?」
と息子に訊ねると「食べる」なんだそうで、息子も腑に落ちない風だった。いやはや、教育の変わりように驚いてしまった。今日の教育にどう対応したらよいのかその難しさをしみじみ感じたという文章だった。

 戦後の教育は心より物の教育だったので、あまりにも現実的即物的な人間をつくり上げ、敬うべきものを敬う心を育てなかった。その結果、お月見にだんごを「供える」ではなく「食べる」といった“花よりだんご”の実利的な生き方が大勢を占めるようになった。

 これは人間として実に大きな損失であり、奥床しい人格の中心をなすまことの喪失につらなるものとして憂慮に耐えない。

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