ちょっといい話

第122話 それを修行っていうんでしょ

挿し絵  意識が朦朧とした時に人の本性が出てしまう、とお年寄りの治療をしてきた早川先生(第121話「バカは死ななきゃ…」参照)は言う。だとしたら、このサイトで120回にもわたってエラソ〜なことを書き続けている私は、病気になって意識が混濁すれば、ひた隠しにしている(?)傲慢な部分や、周囲の目を人一倍気にしてオドオドしている自分を露呈する羽目になる。エライことである。

 で、私が実際に見た夢のテーマは「人は認知症になってもその人の性格が残るか」だ。読者の方も薄々お分かりだと思う。人の性格について良く言うではないか「あれは、あの人の性格だからなおらないよ」と。しかし、私としてはそれでは困るのである。このままいって認知症になったら、私は世にも恐ろしく、おぞましい姿を世間にさらすことになる。

 そこで、医大の助教授を退職してから仏教に興味があって、良く密蔵院に仏教の質問をしに来る斎木さんというお医者さんに質問した。
「先生、認知症になっても、その人の性格は残りますか。ボケてしまえば、几帳面な人は几帳面さも惚けてしまうと思うんですけどね。グチっぽい人は、何でも不満に思う心も惚けてしまうことはないんですか」
 先生の一言で、私の淡い期待は打ち砕かれた。
「残るでしょうねえ」
「つまり、暴力団はぼけても凶暴性を残す?」
「はい、気に入らないことがあればすぐキレます」
「つまり、良く言う“性格はなおらない”ということですか」
「まあ、そういうことです。性格というのは脳のかなり奥のほうで作られている要素ですから、認知症くらいじゃそこまではボケないんですよ」
「エエッ!じゃあ、やっぱり、性格は絶対なおらない?」
「……いや、直せるでしょう」
「ハァ?」
 意外な話の展開に私は、ビックリした。そして、斎木さんは言った。
「だって、住職さん。それを仏教で修行って言うんでショ」
この日、私はとても嬉しかった。仏教のいう“修行”の意味が、やっとはっきりと分かったからだ。心の掘り起こしだ!傲慢な自分に気がついたら、自分が人を見下す正当な理由はあるのかを心の奥底まで掘りかえしてみるのだ。心の底のほうまで、耕して、豊かな土壌にしていくこと、それが修行なんだと思います。

 さて、次回は、掛川市のひじきさんからのリクエストで“いい・かげん”でいきます。
アバウトな奴だといわれる私が、どんなテキトウな話を展開しますやら。お楽しみに。