ちょっといい話

第126話 ソウルメイト

挿し絵  ペンネームwitchさんから、ボランティア活動で知り合ったすごくいい人から、かなり影響を受けて自分の生き方まで変化したみたいだが、そんな運命の人的お題で書いてごらんなさいませ、とリクエストをいただいた。ご自身もそんな人のことをソウルメイトと言うのだろうか……と感じていらっしゃるようだ。

 人との出会いは、時に運命的なものに感じることがある。どんなささいな出会いでも何か縁があるというのを、諺で「袖すり(触れ)合うも他生の縁」と言ったりする(“多少”は間違いですヨ)。すれ違った程度の相手だって、現在の生ではなく、生まれる前の世界で何かしらの縁があった結果としてすれ違ったのだ――ということだ。
 じつは、ここ十年くらい似たような感覚を持つことがよくある。明らかに初対面なのだが、5分ほども話していると「この人とはどこかで会ったことがある。それも、かなり近い間柄だった筈だ」と思えてくるのだ。他生の縁を感じる時である。もちろん、全ての人がwitchさんの言うような魂レベルの友人(ソウルメイト)に思えるわけではない。私は今でもどこかで心を開ききれないところがあって、ソウルメイトと呼べる人に、仏さまを除いて、出会っていない(あるいは会っていても気がつかない状態か……)。
 ラジオの周波数がピタリと合うように、相手の気持ちや言葉に、私が同調したり、共感することはあっても、ソウルメイトというほど心の奥底でつながっていると実感することはないのだ。その点、witchさんの出会いは素晴らしいと思う。“自分は孤独ではない”を実感できるくらいの存在感のある人がそばに(そばでなくても)いらっしゃるのだから。

 あとは、良い生き方に導いてくれた人に敬意を払いつつ、自分が他の人にも同じように温かく対応していこうとすればいいと思う(できなかったら、マダマダ駄目ダナ……と思えばよろしい)。自分が前に向かって、どう人に接していくかが大切だと思う。前世の縁が来世(未来)の縁への架け橋となっていく筈だ。
 ちなみに、上智大学のデーケン先生は“出るから会える”という意味の“出会い”という日本語はとても意味が深く、素晴らしいとおっしゃっている。同感である。ウチ(内・家)にこもっていては出会いはないのである。

 ウーン、今回の流れは消化不良ですね……ごめんなさい。
さて、次回は「影響を受けた人」つながりで“盲目の尊敬”でいきましょう。森鴎外の卓見をご紹介しつつ、仏道の道を考えますぞ。