ちょっといい話

第149話 八方ふさがり人生からの脱出

挿し絵  世の中には、これだけのことをすればこれだけの見返りがあるだろうと、熱心にやる人がいる。昇給目指して頑張る、サラリーアップを期待して張りきる、褒めてもらおうと躍起になる。ところがその見返りは期待通りにくるものではない。仮に期待通りの見返りがあっても、そんなことが永久に続くはずはない。最後には「チェッ」と舌打ちしながら愚痴を言ったりする。つまり見返りをもとめた行為は、どこかで行き詰まってしまうのだ。
 また、他の人が手を出さないような仕事も誰かがやらなければならないからと、犠牲的精神で“じゃあ、私がやります”と手をあげると“あの人は好きでやってるんだヨ”と勝手な陰口を言う人がいる。風の噂で自分のことをそんなふうに言っている人がいると聞くと、何とも情けない気分になるから、仕方なく「そうです。私は好きでやってるんです」と不貞腐(ふてくさ)れなくてはならない羽目になる。つまり犠牲的精神では、どこかで被害者意識が働くことになり、これも心晴々としない。

 私は、子供の頃からそんなことが今までどれだけあったことだろう。自分がやっていることの意味が、どうしたって八方ふさがりなのだ。
 5年ほど前、「四恩酬答和讃(しおん-しゅうとう-わさん)」を唱えていてハタと気がついたことがある。この和讃は仏教の教えの一つ“四恩”についてのものだ。私たちがおかげを受けている代表的な四つ――父母、国、自然を含めた自分以外の生きとし生けるもの、仏法僧――を感じ、それに酬(むく)いることの大切さを説いている。この和讃の六番の歌詞にこうある。
この世は全て四恩なり  答えて返す心がけ  つくす世のためひとのため  これぞ仏道菩薩道
 すでに何百回も唱えていながら、この歌詞に、私の八方ふさがり人生意味論の一つの答えがあったとは、それまで気づかなかった。どんなことでも、ここまで私をしてくれた諸々のおかげに対する“ご恩返し”として、やらせてもらえばいいのだ。
 そう考えたら、私の生き方に、やっていること全てに、アマリがなくなった。

 さて新年開始は、1月16日。姫路のマティトミさんからのリクエスト「曼荼羅について教えて」に触発されて“曼荼羅? 序”でいきます。高価な曼荼羅を売りに来た仏具屋さんに対する父の呆れた対応をご紹介して、曼荼羅の考え方の入り口へごあんな〜い、でございます。