ちょっといい話

第151話 わたしゃマダマダだな

挿し絵  30人程と一緒に四国遍路(八十八カ所霊場)を初めてした時のことだ。
 初日の宿は宿坊。つまりお寺で宿泊である。境内にバスが6台近くも入っていたから、たいへんな数のお遍路さんたちである。
 さて夕方、部屋でくつろいでいると、宿坊の人が“お食事の後だとお風呂が混雑しそうですから、その前にお風呂へどうぞ”と言ってくれた。こちらも初めての遍路なので、アドバイス通りにお風呂に入ることにした。

 さて、旅の疲れをゆっくり取ろうと思って、廊下を歩いて、廊下と脱衣所の間の引き戸を開けて足を踏み入れようとして、私のは唖然とした。
 すでに20人ほどの人が入っている様子なのだが、私が呆れたのは“もう混んでるじゃないか!”ということではない。問題は、その人たちの乱雑なスリッパの脱ぎ方なのだ。
 お寺のトイレなどにはよく「後から入る人のことを考えてスリッパをぬぎましょう」という張り紙がしてある。トイレにまでそんなことを書きたくなるほど、仏教でも“自分のことしか考えないのはヘンでしょ”と言う。なぜなら、自分が生きていることをちょっと考えれば(つまり智恵(ちえ)をつかえば)わかるからである。自分のまわりにあるすべての人や物と相互に依存しあっているじゃないか、ということである(相互供養といいます)。
 乱雑に脱がれたスリッパを見て私は思った……“四国遍路で修行しに来ているのに、こんなスリッパの脱ぎ方しかできないとは何と情けないことであるか!”私はそこにあった全部のスリッパを綺麗にそろえてから、お風呂に入った。

 やはり遍路ブームの影響で、このように観光気分でやってくる人が多いんだろうなあ……と、釈然としないまま夜を過ごして迎えた翌朝のことである。
 宿坊の朝は早い。食事の前に、まず宿泊者全員参列して朝の勤行である。お遍路さんたちは、神妙な面持ちで正座する。昨夜風呂場で好き勝手にスリッパを脱いだ人もその中にいたはずだ。聞き慣れた真言宗のお経を聞きながら(こういう時は私は自分では声を出さずにその場の厳粛な雰囲気にひたるのが大好きである)、心を静かにしていた。そして、お勤めがおわりに近づいたころ、私は自分にちょっと嫌気がさした。“なんだ、俺はまだまだダ……”  そう。お風呂場でああいうスリッパの脱ぎ方をする人だからこそ、四国遍路の修行をするのである。八十八カ所を巡拝し終えるころには、全員が人のスリッパをなおせるようになる筈なのだ。それが修行なのだ。しかし、前夜の私はそのことに気がつかなかった。
 駄目な自分であるからこそ、修行をするのである。駄目なことにガッカリする必要などない。駄目なことに気がつくことこそ大切で、だからこそ、いい人になれるのだ。

 これを書いていて思い出した。
次回は“誰ぞ知る、あんたが汚したんじゃないことを”でいきます。仲間のお坊さんが修行に入る時にお師匠さんから言われた「そこまでやるか?」的トイレのマナーについてのお話でございます。