ちょっといい話

第152話 誰ぞ知る、あんたが汚したんじゃないことを

 前回は、宿のお風呂場でスリッパをどう脱ぐかということを、否、きちんと脱げないからこその修行なんだということを書きました。
 次に使う人の身になってスリッパを脱ぐ。掃除する人の身になってゴミを散らかさない。このように相手の立場にたって考えることを、仏教では“同事(どうじ)”と言って、人徳の一つとしています。この同事の考え方が中途半端だと家庭なんかでは、自分が買ってきたオヤツを“これあげないよ”という言葉にたいして相手が“じゃあ、私が買った時もあなたにはあげないヨ!”と実にサツバツとした状況が展開されることになる。
 ゴミの投棄なんかはこのいい例で、誰かが捨てると、相手と同じような立場に立って“みんな捨ててるんだから…”とあたり一面ゴミだらけになるという寸法である。

挿し絵 さて、本題。お坊さん仲間から聞いた、修行中にお師匠さんから言われたというガツンな言葉がある。

 “いいか。トイレに入って、もし汚れていたら、ちゃんと掃除して出てこい。それをしないと、後から入った人が、お前が汚したと思われても仕方がないぞ”

 ……ね?かなり強烈でしょ?誰でも自分がトイレに入ったら汚れていた経験はあるでしょう。それを掃除して出ないと、自分が汚したと思われる。“そんなバカな。だって私がやったんじゃない……”と言いたくなるけど、なるほどトイレに誰かと入れかわりに入った時に汚れていれば、さっきの人が汚したのにそのまま出て行った、と思いたくなる。だから自分が悪く思われたくなければ、綺麗にしてから出ておいでということなのだ(何だか文体がメチャメチャですが強引に続けます)。
 この“ちょっといい話”の流れでいけば、ここから“しかしながらであります。自分が悪く思われたくないので掃除するというのであれば、まことに動機が不純であると言わざるをえません”としたくなるところ。
でも今回はそうはいかない。なぜなら、私自身が“冗談じゃない。俺を悪く思われてたまるものか”という思いで掃除することがまだ、5回に3回はあるからだ。
 しかし、少なくとも前出の仲間から20歳代後半にこの話を聞いてからは、掃除するようになった(それまではしてなかった)。それほど私にはガツンな一言だったのだ。
 やり続けていればその動機がエエ格好シイなのは分かってくる。だがそれに気づくころには、だからや〜めたとはならないというのが私の経験である。だれが汚そうと、汚れているから掃除する、ただそれだけでトイレットペーパーをカラカラと引き出せる日はいつになったらくるのだろう。

 さて次回は沖縄のゆうさんからの、心が乱れた時にどうしたらいいのでしょうというリクエストに応えて“拡大と縮小”と題して、宇宙を飲み込む方法をご紹介します。